コレクション展 2018-2

2018年5月12日(土) ━ 7月8日(日)

コレクション展 終了
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コレクション展 2018-2

絵画の絆「フランスと日本」展関連企画:それぞれのフランス、それぞれのパリ

19世紀から20世紀にかけて、パリは時代の最先端を行く文化の発信地となり、彼の地で次々と花開く新たな芸術活動は、日本の美術家や文学者にも大きな刺激を与えました。近代以降、日本、そして青森の作家たちは、フランス、パリをはじめとする「西洋」とどのように向き合ったか、青森県立美術館のコレクションからその多彩な軌跡をご紹介します。

 

出品作家
今井俊満、工藤信太郎、工藤哲巳、佐野ぬい、蔦谷龍岬、鳥海青児、成田亨、野澤如洋、橋本花、松木満史、棟方志功

開催概要

会期

2018年5月12日(土)~7月8日(日)

展示内容

展示室N:蔦谷龍岬と野澤如洋~官展と在野にあって

西洋の文化や制度を大幅に取り入れた明治時代、美術の世界でも大きな制度の導入がありました。フランスのアカデミーやサロンといった制度に範をとった官展(政府主催の展覧会)の創設です。明治40(1907)年に設立された文部省美術展覧会は、その後、帝国美術展覧会、ふたたび文部省美術展覧会と名称をかえながら、戦前の美術界の権威であり続けました。棟方志功が上京するにあたり、帝展への入選を切望し、それまでは帰郷しないと誓った逸話は有名です。
棟方が郷土出身の先輩画家として尊敬し、自伝『板極道』に名を記した二人の日本画家は、この戦前の官展に対し対照的な姿勢をとっています。蔦谷龍岬は文部省美術展覧会(文展)の第9回展で《静日》が初入選して以降、一貫して官展系の展覧会を舞台に活躍しました。龍岬は次々と特選を重ね、やがて委員や審査員も歴任するなど将来を嘱望されましたが、昭和8(1933)年、惜しくも48歳の若さでこの世を去りました。
逆に、画壇の一部から高く評価され、第一回文展開催にあたっては審査員を打診されたともいわれている野澤如洋は、一貫して官展に背をむけ、在野を貫き、水墨画にこだわって独自の世界を描き続けました。時代の趨勢からいえば異端ともいうべき如洋ですが、より大きな東洋古来の水墨画の伝統に忠実であったともいえるでしょう。

野澤如洋 《浅絳山水画》
制作年不詳
絹本墨画淡彩

蔦谷龍岬 《宝塔出現》
制作年不詳
紙本着色

棟方志功展示室:米欧の旅~美の借りを返す

棟方はヨーロッパに長年の念願が二つありました。一つはゴッホの墓を詣でること。もう一つはシスティーナ礼拝堂でミケランジェロの《最後の審判》に会うことでした。
昭和34(1959)年1月、アメリカのロックフェラー財団とジャパン・ソサエティの招きにより棟方は初めて渡米。滞米中は各地の大学で板画の講義をしたり渡航中の船中で生んだ新作含む個展を開催したりと精力的に活動します。8月、ニューヨークの街が夏休みに入り約1か月間のヨーロッパ旅行へと出発。フランス、オランダ、スイス、イタリア、スペイン、各地の美術館などを見学し、ついに念願叶いパリ郊外のオーベールにあるゴッホの墓を詣でます。このゴッホの地を訪れゴッホの空気と情景を感じたこと、そしてシスティーナ礼拝堂で《最後の審判》を見たことにより「絵描きとしての生涯の負担というものが、ここでさっぱりと払いのけられたような想いがしました」と語っています。今まで美というものから借金を受けていて体の中に溜まっていた感覚があった棟方にとって肩の荷を下ろす出来事となりました。米欧の旅は棟方に多くの実りをもたらします。
このたびの展示では雑誌に載ったゴッホの《ひまわり》に感動し「わだばゴッホになる」と決意した初期の油絵や板画、棟方が一躍世界のムナカタとなったサンパウロ、ヴェネツィア・ビエンナーレへの出品作、米欧旅行で描いた作品などを主に展示いたします。

展示室O、P:工藤哲巳 パリの仏陀

1960年代に「反芸術」の旗手として活躍した工藤哲巳は、1962年からパリに拠点を移し、晩年の1987年に東京芸術大学教授となり帰国するまでの20数年間、ヨーロッパの閉塞した社会をショッキングな表現方法で挑発し続けました。
工藤は自らの作品を「社会評論の模型」と呼びました。1960年代には、過去の栄光にすがるだけで不能化されたヨーロッパ社会を痛烈に批判し、「あなたの肖像」シリーズを制作します。「あなたの肖像」とは、現代ヨーロッパ文明が抱える問題点とそこに生きる人々を、「これがあなたたちの姿そのものだ」と批判的、挑発的に表現したシリーズです。この不能化されたヨーロッパを徹底的に批評するために、工藤はあえてショッキングな表現、猥褻な表現を組み合わせて攻撃しました。
1970年代に入ってから、工藤が取り組んだ新たなテーマは「環境汚染」でした。人間が豊かさを追及する一方、自動車の排気ガス、工場からの排煙、廃水など、自らが作り出した環境汚染、自然破壊に苛まれている。自分たちが作り出した文明社会が自分たちを圧迫していることを認識しつつも、自ら克服できずにいる「不能さ」。工藤は繁栄を誇るかにみえる近代文明を独自の視点から捉え、現代社会における人間の在り方に深い疑問を投げかけ、ショッキングな表現で人々の前に提示し続けたのです。その深い思索と哲学に裏打ちされた作品が発する「警告」は、現在もなお我々に鋭く迫ってきます。

展示室Q:今井俊満 フランスと日本、そしてヒロシマ

1957年、フランスに渡っていた今井俊満は、アンフォルメル運動の主唱者ミシェル・タピエらとともに一時帰国し、アンフォルメル旋風を巻き起こしました。それは、戦後の日本美術の動向に大きな影響を与えるとともに、日本の若い世代に強烈な刺激を与えました。自らの活動も、アンフォルメルの旗手として、その仕事は高く評価されたものの、「自分をコピーし続ける」ことを否定し、ひとつところに安住することを潔しとせず、常に新たな表現に挑戦し続けました。
アンフォルメルの前衛的な非具象の世界から一転し、日本な「花鳥風月」、「飛花落葉」の世界へ。さらに戦争をテーマにした「ヒロシマ」シリーズへと大きく作風を展開させていきました。晩年には「コギャル」をとおして生のエネルギーを表現するなど、病に冒されながらもその創作意欲は死の直前まで衰えることはありませんでした。
今回はフランス時代の優品に加え、日本的テーマに回帰した後の「ヒロシマ」シリーズ等を紹介します。

今井俊満《Feu de Roses》
1960年
油彩・キャンバス

展示室M:成田亨 怪獣デザインの美学

成田亨は、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」という初期ウルトラシリーズのヒーロー、怪獣、宇宙人、メカをデザインし、日本の戦後文化に大きな影響を与えた彫刻家兼特撮美術監督です。
成田は神戸市に生まれ、直後に青森県へ移りました。旧制青森中学(現青森高等学校)在学中に画家・阿部合成と出会い、絵を描く技術よりも「本質的な感動」を大切にする考え方を学んだ後、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)西洋画科へと進学。当初は油彩画を専攻していましたが、「地面から立ち上がるようなデッサンを求める」(成田)ため3年次に彫刻科へ転科。具象性を維持しつつもフォルムを自在に変容させ、動的かつ緊張感ある構成を作り上げていくという成田芸術の基礎がここで形づくられていきました。
武蔵野美術学校研究科に在籍していた1954年、成田は人手の足りなかった「ゴジラ」の製作に参加、そこで円谷英二と出会い、以降特撮美術の仕事も数多く手がけるようになります。
1965年、東宝撮影所で円谷英二と再会し、「怪獣のデザインはすべて自分がやる」という条件のもと「ウルトラQ」の2クールから制作に参加、以降「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」までのシリーズに登場するヒーロー、怪獣、宇宙人、メカニック等のデザインを手がけます。
美術家としての高い感性によってデザインされたヒーロー、怪獣は、モダンアートの成果をはじめ、文化遺産や自然界に存在する動植物を引用して生み出される形のおもしろさが特徴です。誰もが見覚えのあるモチーフを引用しつつ、そこから「フォルムの意外性」を打ち出していくというその一貫した手法からは成田の揺らぐことのない芸術的信念が読みとれるでしょう。

展示室L、J:フランスに学ぶ・フランスを描く

L:フランスに学ぶ・フランスを描く-1

近代日本の多くの美術家たちが当時の芸術の中心地であったフランスにあこがれ、渡仏してパリに学び、尊敬するフランスの画家達と同じ風景を描きました。青森の画家では、フランスに学ぶという夢を実現した最初期の画家としてあげられるのがつがる市(旧木造町)出身の松木満史でしょう。若き日から白樺派に傾倒し、美術のみならず文学や演劇にも関心が深く、棟方志功の親友でもありましたが、1938年にはかねてよりあこがれていたフランスへの渡航を果たします。家族の不幸や戦争の激化などにより、1年半で帰国を余儀なくされますが、帰国後の作品には印象派風の明るい光がとりいれられるようになっていきます。
今回はパリへの渡航の際の船中や寄港地などで描かれた淡彩によるスケッチと、渡航前の重く深い色彩による油彩画、そして渡航後の明るい光に満たされた油彩画を展示します。また、あわせて、青森県出身の画家として、松木満史にさきがけてフランスにわたっていた工藤信太郎の油彩画を展示します。

工藤信太郎 《パリのアコーディオン弾き》
1932年
油彩・キャンバス

J:フランスに学ぶ・フランスを描く-2

棟方志功や松木満史が画家への夢をいだき、上京して奮闘していた頃、女子美術学校(現女子美術大学)の学生でありながら、帝展に入選し、棟方から羨望の目でみられていたのが、青森市出身の女性画家、橋本花でした。花は戦後、1960年代にブラジルとヨーロッパを歴訪、とくにここに展示するような、パリの街の風景を題材にした作品を数多く残しています。
神奈川県平塚市生まれの鳥海青児は、厚塗りの重厚な質感で知られる、日本の代表的な洋画家の一人です。弘前市出身の前衛美術家の小野忠弘の親しい先輩・友人でもありました。鳥海は1930年から1933年にわたり、ヨーロッパに遊学し、パリでみたドラクロワ展で、ドラクロワを魅了したアルジェリアに関心を抱き、フランス領であったアルジェリアを訪れ1年半ほど滞在しています。首都アルジェ市にあるグーベルヌマン広場はこの時代に取り上げられた題材で、熱い空気と広場の喧噪を生々しい絵具の質感で描写しています。モスクを背景にターバンを身につけた人々が行き交う灼熱の風景はパリとは違うもうひとつのフランスの姿を見せてくれます。

鳥海青児 《プラス・デュ・グーベルマン(アルジェ)》
1930-32年
油彩・キャンバス

展示室I、H:佐野ぬい わが心の巴里パリ

1932年、佐野ぬいは弘前の菓子店に生まれます。店内にはクラシックが流れるティールームがあり、家業の傍ら同人誌を発行していた父の友人たち、文学者や画家らがよく集っていたという文化的な環境の下で幼少期を過ごし、父はまた、娘に津軽民謡を教える一方、フランス近代詩を暗唱させたといいます。
女学校に入ると、終戦後「怒濤のごとく」上映され始めた欧米映画、中でも1930年代のフランス映画に心酔し、フランスに行きたい、パリの街を描きたいという思いに駆られ、「津軽より、東京の方が巴里に近い。まず東京へ行こう。」と1951年上京し、女子美術大学に入学します。
戦後間もない東京では、海外から新しい潮流が押し寄せ、それに呼応する斬新な芸術活動が次々と生まれていました。佐野は卒業後も大学に残り、画家の道を歩み始めます。やがて作品からは、具体的な事物が消え、色彩の対比で画面構成を行う独自の作風を築き上げました。その画面上では様々な色と形が響き合い、ニュアンスに富んだ筆線がときには素早い、ときにはゆっくりとした動きやリズムを奏でています。
佐野が、創作の要として位置づけ、現在まで最も大切にしているのは「青」という色です。作品に現れる「青」には、画家自身がその人生で出会った様々な「青」が投影されています。たとえば幼い頃菓子工場で白いクリームや青い洋酒の瓶を眺めていた記憶や、雪上の真っ青な空など雪国の自然の中で育まれた色彩への鋭敏な感覚から呼びさまされた「青」が。そして画家自身語っているように、「青」は気分や想いを表す色です。それは「郷愁」の色であり、また「憧憬」の色であるともいわれます。佐野の「青」は少女時代に抱いた想いに始まる、パリへの憧れを映しているのかもしれません。若き日に恋い焦がれたパリの街そのものの姿はありませんが、その画面から香り立つエスプリは、画家の心の中に宿り続けている「巴里」を源泉として湧き起こってくるように思われます。
未だ見ぬ「青」を求め、佐野ぬいは今も絵筆を握り続けています。

佐野ぬい 《ブルーノートの構図》
1994年
油彩・キャンバス

佐野ぬい 《ペーパーガン・Z》
1991年
油彩・キャンバス

通年展示 展示室F、G:奈良美智 《Puff Marshie》《Hula Hula Garden》

国内外で活躍する青森県出身の美術作家・奈良美智(1959- )は、挑むような目つきの女の子の絵や、ユーモラスでありながらどこか哀しげな犬の立体作品などで、これまで若い世代を中心に、多くの人の心をとらえてきました。
青森県立美術館では、開館前の1998年から、絵画やドローイングなど、奈良美智作品の収集を始めました。現在、170点を超えるそのコレクションの多くは、奈良が1988年から2000年まで滞在したドイツで生み出されたものです。
この展示室では、当館がほこる奈良美智の90年代のコレクションを中心に、《Puff Marshie (パフ・マーシー) 》(2006年)や《Broken Heart Bench (ブロークン・ハート・ベンチ) 》(2008年)など、作家からの寄託作品も展示しています。

通年展示 アレコホール:マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の舞台背景画

青森県立美術館の中心には、縦・横21m、高さ19m、四層吹き抜けの大空間が設けられています。アレコホールと呼ばれるこの大きなホールには、20世紀を代表する画家、マルク・シャガール(1887-1985)によるバレエ「アレコ」の背景画が展示されています。青森県は1994年に、全4作品から成るバレエ「アレコ」の舞台背景画中、第1幕、第2幕、第4幕を収集しました。
これらの背景画は、帝政ロシア(現ベラルーシ)のユダヤ人の家庭に生まれたシャガールが、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れるため亡命していたアメリカで「バレエ・シアター(現アメリカン・バレエ・シアター)」の依頼で制作したものです。大画面の中に「色彩の魔術師」と呼ばれるシャガールの本領が遺憾無く発揮された舞台美術の傑作です。
残る第3幕の背景画《ある夏の午後の麦畑》は、アメリカのフィラデルフィア美術館に収蔵され、長らく同館の西側エントランスに展示されていましたが、このたび同館の改修工事に伴い、4年間の長期借用が認められることになりました。青森県立美術館での「アレコ」背景画全4作品の展示は、2006年の開館記念で開催された「シャガール 『アレコ』とアメリカ亡命時代」展以来です。背景画全4作品が揃ったこの貴重な機会に、あらためてシャガールの舞台美術作品の魅力をお楽しみください。

 

★フィラデルフィア美術館所蔵の第3幕は、長期の借用となるため、函館税関からアレコホールを保税展示場とする許可をいただいて展示しています。
展示期間:2017年4月25日 – 2021年3月頃(予定)
アレコホールへのご入場には、コレクション展もしくは企画展の入場チケットが必要です。