コレクション展 2017-3

2017年9月16日(土) ━ 12月10日(日)

コレクション展 終了
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コレクション展 2017-3

破壊と創造:1950~1960年代の日本美術

企画展「夢に挑む 洋画をめぐる画家たちの冒険 ~明治・大正・昭和 日本と青森の近代洋画史~」展に連動し、「その後」の日本美術の流れを振り返ります。1950年から60年代にかけて起こった様々な表現の動向を、工藤哲巳、豊島弘尚、寺山修司とその周辺の仕事をとおして伝えます。

豊島弘尚《例えば嘲笑いの中で変容した頭部》 豊島弘尚 《例えば嘲笑いの中で変容した頭部》 1966年 182.0×227.0cm キャンバス・油彩

豊島弘尚《例えば嘲笑いの中で変容した頭部》 豊島弘尚 《例えば嘲笑いの中で変容した頭部》 1966年 182.0×227.0cm キャンバス・油彩

開催概要

会期

2017年9月16日(土)-12月10日(日)

展示内容

破壊と創造:1950~1960年代の日本美術

展示室N・棟方志功展示室:棟方志功と青森の画家:野澤如洋、蔦谷龍岬、松木満史

棟方志功は1964年に出版された自伝『板極道』で、「忘れることのできない二人の郷土の画家」として、野澤如洋と蔦谷龍岬の名を記しています。

野澤如洋は速筆による馬の絵で知られますが、棟方は花鳥が彼の得意であったと信じていると書いています。如洋は、明治以降、西洋美術の影響も受けながらさまざまな新しい試みがなされた日本画の世界において、あえて水墨画にこだわり、新たに生まれた官展に背をむけ、独自の世界を描き続けました。時代の趨勢からいえば異端ともいうべき如洋ですが、より大きな東洋古来の水墨画の伝統に忠実であったともいえるでしょう。

蔦谷龍岬は文部省美術展覧会(文展)の第9回展で「静日」が初入選して以降、一貫して官展系の展覧会を舞台に活躍した作家です。龍岬は次々と特選を重ね、やがて委員や審査員も歴任するなど将来を嘱望されましたがが、1933、惜しくも48歳の若さでこの世を去りました。ここでは、棟方が「わたくしにとくに感じ深く想わせた」と書いている代表作『霜の大原』と同主題で描かれた軸をはじめ彼が得意とした、大和絵を参考にしつつ、そこに豊かな詩情をただよわせた画風による作品を展示します。

棟方志功の親しい友人であり、青森県の近代洋画の発展において、もっとも重要な役割をはたしたのが松木満史でした。松木は、志功とともに青森市で美術団体「青光画社」をたちあげた最初期からの画友であり、棟方と競い合うように上京し、国画会に所属した松木は、1938年、フランスに渡り、油彩の本場で学びますが、戦争の激化により志半ばで帰国。その後は青森市に美術研究所を作り、芸術への厳しい姿勢を保ち、数多くの後進を育てました。ここでは、彼が戦前、東京で交友のあった中里村(旧中泊町)出身で、青森県ではじめてオリンピックに出場した陸上競技選手である井沼清七氏に贈った小品『スイトピー』他、彼の戦前から戦後への歩みをたどる油彩画を展示します。

本コーナーでは、これら棟方志功の思い出に残る3人の青森の画家を展示すると共に、棟方の大正期の素朴な少女のスケッチや松木のチョッキに描いた倭画、戦前と戦後の油彩画等を展示し、世界のムナカタへいたるみちのりを紹介します。

展示室P:花粉の季節:今井俊満と日本の「アンフォルメル」

「アンフォルメル」とは第二次大戦後、50年代から60年代にかけてのフランスを中心にヨーロッパで勃興した前衛芸術運動です。「アンフォルメル(非定形)」の名が示すとおり非具象的な画面を特徴とし、アメリカでは抽象表現主義とよばれて後の現代美術の動向を準備するなど、国の境を越えた世界的芸術運動へと展開しました。

アンフォルメルは当時日本の前衛の芸術家たちにも多大な影響を与えました。その一人が今井俊満です。激しく時に繊細な筆さばきによる重厚なマチエールからなる今井独自の絵画空間は、日本のみならずアンフォルメルを代表するものとなり、日本とヨーロッパの前衛芸術をつなぐ架け橋となりました。

本章は今井を筆頭に、同時代日本のアンフォルメルの旗手として名を馳せた頃の難波田龍起、県にゆかりの小野忠弘の作品を紹介することで、アンフォルメルの日本受容の一端を紹介するものです。難波田の作品に見るアンフォルメル以前の構成主義的な絵画空間からアンフォルメル的空間へと至る変化、小野の作品に見る後の物品を組み合わせてつくる「ジャンク・アート」的なマチエールやタイトルから伺うことのできる叙情への志向は、アンフォルメルの芸術様式が芸術家の表現を変化させ、次の表現を準備するための重要な媒体となっていたことを示しています。

展示室Q:播かれた種子:グループ「新表現主義」と豊島弘尚

「新表現主義」は県ゆかりの画家・豊島弘尚が同世代の芸術家らと開催したグループ展の名称です。1957年の第1回展以降、「新表現」と名を変えながら1985年の第9回展まで開催されました。当時前衛を「絶えざる価値概念の変革」とし、そこで展開された活動を「カラ回り」「観念のみの遊戯」として批判、自らの「内発の声」に耳を傾ける制作態度(*)は、当時世界の芸術動向を席巻していた「アンフォルメル」や同郷の工藤哲巳を代表とする「反芸術」と並走しながら、そのいずれとも一線を画す、鬼子的な芸術動向といえます。

本章では豊島を軸に針生鎮郎、松本英一郎(いずれも1960年から参加)の仕事を当時と後の作品ともに紹介することで、グループ「新表現主義」が戦後の日本美術において果たした役割を考察します。身体への志向をキャンバス上に再構成、やがて「種子」をめぐる想像や北欧の大地とオーロラを媒体に、未見の大地を絵画空間に現出させた豊島。アンフォルメルから出発した鮮烈な色彩に基づきながら土俗性をも感じさせる画面を追求した針生。身体のフォルムと絵画空間の交差からやがて独自の風景を展開させた松本。「新しい“いのち”は、新しい衝動からしか生まれない。その地平を“芸術”と呼ぶ」(**)。作品の空間構成においてどこか響き合うものを感じさせる三者の表現からは、己の存在論ともいうべき芸術世界を開花させようとした、当時の芸術家たちの矜持が見て取れるようです。

*福島瑞穂「グループ『新表現主義』と豊島弘尚」『豊島弘尚‐北の光と三つの故郷‐』(八戸市美術館、2015)p.49

**豊島弘尚「〈その声の終わりに〉水性の星」『極光ありて』(NOTHERN LIGHT、2013)p.51

展示室M:成田亨:怪獣デザインの美学

成田亨(1929-2002)は、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」という初期ウルトラシリーズのヒーロー、怪獣、宇宙人、メカをデザインし、日本の戦後文化に大きな影響を与えた彫刻家兼特撮美術監督です。

成田は神戸市に生まれ、直後に青森県へ移りました。旧制青森中学(現青森高等学校)在学中に画家・阿部合成と出会い、絵を描く技術よりも「本質的な感動」を大切にする考え方を、さらに彫刻家の小坂圭二から対象物の構造や組み立て方、ムーブマンを重視する方法論を学んだ後、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)西洋画科へと進学。当初は油彩画を専攻していましたが、「地面から立ち上がるようなデッサンを求める」(成田)ため3年次に彫刻科へ転科。具象性を維持しつつもフォルムを自在に変容させ、動的かつ緊張感ある構成を作り上げていくという成田芸術の基礎がここで形づくられていきました。

武蔵野美術学校研究科に在籍していた1954年、成田は人手の足りなかった「ゴジラ」の製作に参加、そこで円谷英二と出会い、以降特撮美術の仕事も数多く手がけるようになります。

1965年、東宝撮影所で円谷英二と再会し、「怪獣のデザインはすべて自分がやる」という条件のもと「ウルトラQ」の2クールから制作に参加、以降「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」までのシリーズに登場するヒーロー、怪獣、宇宙人、メカニック等のデザインを手がけます。放映に際し、「これまでにないヒーローの形を」という脚本家・金城哲夫の依頼を受けた成田は、ウルトラマンのデザインを純粋化という「秩序」のもとに構築し、対する怪獣のデザインには変形や合成といった「混沌」の要素を盛り込んでいきます。

美術家としての高い感性によってデザインされたヒーロー、怪獣は、モダンアートの成果をはじめ、文化遺産や自然界に存在する動植物を引用して生み出される形のおもしろさが特徴です。誰もが見覚えのあるモチーフを引用しつつ、そこから「フォルムの意外性」を打ち出していくというその一貫した手法からは成田の揺らぐことのない芸術的信念が読みとれるでしょう。

展示室J:テラヤマ:ジャパン・アヴァンギャルド

寺山修司 (弘前市出身/1935-83) は県立青森高等学校時代、「俳句」によって表現活動をはじめ、早稲田大学進学後は「短歌」の世界へ、その後凄まじいスピードでラジオ、テレビ、映画、そして競馬やスポーツ評論の世界を駆け抜けていったマルチアーティストです。1967年には「演劇実験室◎天井棧敷」を立ち上げ、人々の旧来的な価値観に揺さぶりをかけ、さらには多岐にわたる活動の中、美術、デザイン、音楽といった様々なジャンルで新しい才能を発見し、育てていったことも特筆すべき業績の一つと言えましょう。

1960~70年代はいわゆるアングラ文化が全盛の時代でした。高度成長によって近代化が急速に進む一方、社会的な構造と人間の精神との間に様々な歪みが生じ、そうした近代資本主義社会の矛盾を告発するかのように権力や体制を批判、従来の価値観を否定していく活動が盛んとなっていったのです。特に寺山は大衆の興味や関心をひきつける術に特異な才能を発揮しました。演劇や実験映画ではそれが顕著で、演劇、映画のあらゆる「約束事」が否定され、感情や欲望を刺激するイメージで覆い尽くされた寺山の斬新な作品は多くの人々を虜にしていきました。

このコーナーでは、寺山が主宰したアングラ文化の象徴とも言うべき「演劇実験室◎天井棧敷」のポスター11点を紹介いたします。

展示室I:いざ、独立のとき:工藤哲巳と「アンデパンダン」の作家たち

「アンデパンダン」とは1884年以降フランス・パリで開催されている、無審査・無報酬で、会費を払えば誰でも出品可能な美術展の総称です。印象派以後の若い芸術家たちの登竜門として機能し、日本でも1947年から日本美術会の主催で同形式による「日本アンデパンダン」が始まり、後に「読売アンデパンダン」はじめ全国各地で同形式による様々なアンデパンダン展が勃興しました。

若手芸術家の自由な表現の場として機能していたアンデパンダンは先鋭化の一途を辿り、受入先の美術館との軋轢などを抱えながらも、やがて県ゆかりの芸術家・工藤哲巳を旗手とする「反芸術」などの芸術動向を生み出します。反芸術が志向する既存の文明観・社会観の解体を試み、芸術を人の日常や社会全体の中で捉え直す特徴は、今日まで続く現代美術の胎土となりました。

本コーナーでは工藤哲巳作品を軸に、「読売アンデパンダン」をはじめ50年代60年代日本各地のアンデパンダン展に参加した芸術家の作品を、当時の作品とそこからの発展を見て取ることのできる後の作品を交えて展示します。そうすることで美術批評家・東野芳明が工藤の作品を描写し、反芸術の世界観を表した言葉「ガラクタの廃墟から根生えた強烈な観念の世界」と現実とを改めてつなぎ、当時の時代精神と芸術活動との関わりの一端を照射し、戦後の日本美術における「独立」について考察を試みます。

通年展示

展示室F、G:奈良美智《Puff Marshie》《Hula Hula Garden》

国内外で活躍する青森県出身の美術作家・奈良美智(1959- )は、挑むような目つきの女の子の絵や、ユーモラスでありながらどこか哀しげな犬の立体作品などで、これまで若い世代を中心に、多くの人の心をとらえてきました。
青森県立美術館では、開館前の1998年から、絵画やドローイングなど、奈良美智作品の収集を始めました。現在、170点を超えるそのコレクションの多くは、奈良が1988年から2000年まで滞在したドイツで生み出されたものです。
この展示室では、当館がほこる奈良美智の90年代のコレクションを中心に、《Puff Marshie (パフ・マーシー) 》(2006年)や《Broken Heart Bench (ブロークン・ハート・ベンチ) 》(2008年)など、作家からの寄託作品も展示しています。

アレコホール:マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の舞台背景画

青森県立美術館の中心には、縦・横21m、高さ19m、四層吹き抜けの大空間が設けられています。アレコホールと呼ばれるこの大きなホールには、20世紀を代表する画家、マルク・シャガール(1887-1985)によるバレエ「アレコ」の背景画が展示されています。青森県は1994年に、全4作品から成るバレエ「アレコ」の舞台背景画中、第1幕、第2幕、第4幕を収集しました。
これらの背景画は、帝政ロシア(現ベラルーシ)のユダヤ人の家庭に生まれたシャガールが、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れるため亡命していたアメリカで「バレエ・シアター(現アメリカン・バレエ・シアター)」の依頼で制作したものです。大画面の中に「色彩の魔術師」と呼ばれるシャガールの本領が遺憾無く発揮された舞台美術の傑作です。
残る第3幕の背景画《ある夏の午後の麦畑》は、アメリカのフィラデルフィア美術館に収蔵され、長らく同館の西側エントランスに展示されていましたが、このたび同館の改修工事に伴い、4年間の長期借用が認められることになりました。青森県立美術館での「アレコ」背景画全4作品の展示は、2006年の開館記念で開催された「シャガール 『アレコ』とアメリカ亡命時代」展以来です。背景画全4作品が揃ったこの貴重な機会に、あらためてシャガールの舞台美術作品の魅力をお楽しみください。

★フィラデルフィア美術館所蔵の第3幕は、長期の借用となるため、函館税関からアレコホールを保税展示場とする許可をいただいて展示しています。
展示期間:2017年4月25日 – 2021年3月頃(予定)
アレコホールへのご入場には、コレクション展もしくは企画展の入場チケットが必要です。