平成19年度 青森県立美術館常設展I

2007年4月10日(火) ━ 6月24日(日)

コレクション展 終了
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平成19年度 青森県立美術館常設展I

開催概要

会期

2007年4月10日 (火) – 2007年6月24日 (日)

展示内容

特集:都市の空気、故郷の土

青森県が生んだ個性豊かな芸術家たち。
その多くは、創作活動を展開する中で、郷里を離れ、大都市へとおもむきました。
さまざまな人との出会いや最先端の芸術の動向など、多くの刺激を与えてくれる都市の環境は、彼らの創造力を飛躍的に高めました。
才能の開花を促したのは、しかし、都市の刺激的な空気ばかりではありませんでした。
その土地を離れることではじめて心に芽生える「故郷」の意識。
彼らは「故郷」の所有者となることによって、いっそうたくましい批判精神を獲得し、そこから独自の世界観を確立していったのでした。
青森に生まれた近現代の芸術家の多様な表現から、故郷と都市の隔たりの中で培われていった強烈な個性について考えます。

阿部合成: ふるさとと都会の間で

青森市浪岡(旧浪岡町)の旧家に生まれた阿部合成 (1910 – 1972) は、そのドラマチックな生涯から、「修羅の画家」と呼ばれています。大作《見送る人々》が反戦的な絵画とされて迫害をうけ、出征してシベリアに抑留され生死の境を生き抜かざるを得なかった過酷な戦争体験、旧制青森中学以来の友人であった太宰治の生涯と呼応するような、東京へ出てのデカダンスな生活など、合成の生涯はいかにも芸術家らしく波乱に富んだものでした。
そのなかで合成は、何度も飛び出したはずの故郷に戻り、傷ついた心をいやし、また旅立っていきます。
今回の常設展示では、初期から晩年までの合成の作品から郷土青森の風景や親しい人々を描いた作品と、東京に出て、デカダンスな生活の中でしばしば自らをたとえた道化師やサーカスをテーマにした作品を中心に展示します。

小野忠弘:小野忠弘入門

大正2年、青森県弘前市に生まれた小野忠弘 (1913 – 2001) は、東京美術学校彫刻科で本格的に美術を学んだ後、美術教師として赴任した福井県三国町に居を構え、88歳で命を落とすまでの半世紀以上にわたり、独自の創造の世界に没頭しました。
厚塗りの絵具、樹脂のしたたり、貼り付けられた廃品の数々。絵画でもない、彫刻でもない、雑多な素材の無限の絡まりの中に、宇宙の文(あや)ともいうべき、深遠なる表現世界が展開しています。
「小野忠弘という美術家は、戦後の40年間前衛といわれ続けています。一度も保守であったためしがない」。作家と親交のあった詩人、宗左近は、こう語っています。
今回は、当館が有する作家本人からの寄贈作品を含む80点あまりの小野忠弘コレクションの中から、生涯の活動を概観する16点をセレクション。永遠の前衛芸術家、小野忠弘のカリスマにせまります。

工藤甲人: 夢と覚醒のはざまに

工藤甲人 (1915 – ) は、大正4年現在の弘前市百田に生まれ、戦後、新しい日本画を創り出そうとした美術団体、創造美術・新制作日本画部・創画会を活動の舞台とし、夢幻の世界と現実の世界のはざまを漂う独特の画風を築き上げました。
昭和37年、47歳のとき、工藤甲人は故郷弘前を離れ、神奈川県平塚市に移り住みます。弘前時代最後の作品が《荊蕀 (けいきょく) 》、中央画壇から取り残された当時の心境をイバラに閉じこめられた鳥に自らの姿を重ね合わせました。師ともいうべき秋田県小坂町出身の日本画家福田豊四郎にその悩みを打ち明けたところ、「弘前は世界の弘前ではないか。それと同時におまえは世界の工藤甲人なんだよ。」と励まされます。「世界性に立脚する日本絵画の創造」を目指した創造美術の創立者の一人らしい言葉です。
その後、湘南の風にあたりながら、工藤甲人は次々と新境地を拓いていきますが、常に忘れず胸中にあったのは、この《山野光礼讃》などに見られる津軽人の春を待つ心です。

小島一郎: 下北-東京

大正13年、青森市大町 (現:本町) に、県内でも有数の写真材料商「小島写真機店」を営む父平八郎と母たかの長男として生まれた小島一郎 (1924 – 1964) は、昭和30年代の約10年間、青森県内をくまなく歩き、風景や人々を写真に撮り続けました。
津軽の貧しい農村や下北の雪景色などを、独特の焼きこみの手法により、力強く表現した写真の数々は、時代を経た今も新鮮な魅力をたたえています。
小島にとって、運命の被写体ともいえる青森の風土。しかし、この土地の多くの芸術家たちがそうであるように、小島もまた、活躍の場をもとめて、青森から東京へと移り住みます。
ここでは、小島の本領が発揮された厳寒の下北と、上京してから撮られた東京の風景の写真を並べて紹介し、作家の個性と風土との関係について考えます。

斎藤義重: 創作のプロセス

絵画や彫刻といったジャンル分けを超え、独自の表現を追求した斎藤義重 (1904 – 2001) 。
1960年代以降は、電気ドリルを使って合板に線を刻んだ連作を発表することで作品の物質性に重点をおき、やがて空間を志向するかのように平面からレリーフへと展開、1970年代末からは空間そのものを取り込んだ立体作品へと移行していきました。
本コーナーでは、そうした斎藤の創作プロセスを、レリーフ作品や立体をはじめ、デッサン (設計図) とも言えるドローイングや、大辻清司、安齋重男らが撮影した様々なドキュメント写真をとおして紹介します。

佐野ぬい:佐野ぬいの世界

昭和7年、弘前の洋菓子店に生まれた佐野ぬい (1932 – ) は、歴史ある城下町で新しい時代の文化の息吹に触れて成長しながら、雪国の自然の中で色彩への鋭敏な感覚を磨いてゆきます。
パリにあこがれ、やがて女子美術大学に学んで画家になった彼女は、戦後、海外からつぎつぎと押し寄せる新しい美術の動向と、それに呼応するように日本国内で沸き起こる斬新な芸術活動に刺激を受けつつ、「人と同じ絵は描かない」という信念のもとにキャンバスに向かってきました。
今回の展示では、昭和20年代、30年代、40年代、そして昭和から平成へ、さらに21世紀へという、佐野ぬいの半世紀に渡る作品を展示しています。洒落た雰囲気の美しく楽しげな作風がどのように作り上げられてきたのか、その歩みをじっくりとご堪能ください。

寺山修司:寺山修司の映像世界

寺山修司 (1935 – 1983) は東京を活動の拠点としつつも、故郷青森の言葉や風土を意識した作品を数多く手がけています。
偽の自伝映画「田園に死す」 (1974年、ATG) は、恐山と新宿のイメージが交錯する物語ですが、青森の家が壊れると新宿東口があらわれる不思議なラストシーンに象徴されるように、現実と虚構、都市と地方、現在と過去、内面と外面、創造と破壊、生と死といった対立する概念をあわせ持つ両義性の魅力が寺山作品の大きな特徴と言えます。
今年度の常設展示では、そうした寺山の本質を端的に示す実験映像作品を中心に展示を構成します。

奈良美智:奈良美智インスタレーション

青森県弘前市出身の奈良美智 (1959 -) は、弘前市の高校を卒業後、東京と名古屋の大学で本格的に美術を学び、1980年代半ばから絵画や立体作品、ドローイングなど、精力的に発表を続けてきました。青森県立美術館は、1997年から奈良美智作品の収集をはじめ、現在その数は150点を越えます。
ここでは、《Hula Hula Garden》と《ニュー・ソウルハウス》という2点のインスタレーション (空間設置作品) を中心に、奈良美智の世界をご紹介します。

成田亨: 怪獣デザインあれこれ

成田亨 (1929 – 2002) が手がけたウルトラシリーズの怪獣デザイン原画を紹介します。
彫刻家としての感性、芸術家としての資質が反映されたそのデザインは、放映後40年が経とうとする現在もなお輝きを失っていません。
子どもから大人まで、多くの日本人に親しまれている怪獣、宇宙人の数々をお楽しみください。

棟方志功:青森、東京、福光、そして世界

ひょっとして青森の人は東京に行くことと海外に出ることと感覚的にほとんど差異がないのでは、と思うことがよくあります。棟方志功 (1903 – 1975) をはじめ、寺山修司、工藤哲巳、奈良美智ら青森県出身のユニークな芸術家を列挙してみても、海外で活躍し、高い評価を受け、普遍性を持っています。青森に生まれ、画家を志し東京に出た棟方は、富山県旧福光町での疎開を経て、やがて世界のムナカタとなりました。
青森時代の作品から東京に出た頃の初期作品、代表作である《二菩薩釈迦十大弟子》、他力ということを知った疎開時代、数度の海外旅行における作品等々、その土地土地で得たものを棟方がどのように形にしたのか、ご覧いただきたいと思います。

※阿部合成、小野忠弘、斎藤義重、佐野ぬいの展示室は展示作業の都合上、2007年4月12日からの公開となります。ご了承くださいますようお願い申し上げます。

小企画:概念芸術 - 「美術」への挑戦 -

映像や写真、パフォーマンスなど、今日、美術にはさまざまな表現が見られます。なかには、「これが『美術』?」と疑問をいだかせるような作品も少なくありません。こうした現代芸術の多様な展開を決定づけた動向の一つに、1960年代から70年代にかけて、アメリカ、ヨーロッパそして日本などに広まった「概念芸術(コンセプチュアル・アート)」があります。
「概念芸術」のアーティストたちは、美術作品の物としての側面よりも、そこから伝わる観念を重視したため、写真や文字など、あえて物質性を感じさせない媒体を表現手段としました。これは、それまでの「美術」に対する一般的な考え方や「美術」をとりまくさまざまな制度への果敢な挑戦でした。
ここでは、「概念芸術」の動きの中で特に重要な役割を果たした日本と海外のアーティストの5点の作品を紹介します。

 

■高松次郎 [1936 – 1998]
『この七つの文字』、1970年、プラノグラフ・紙、72.8×51.5
『These Three Words』、1970年、プラノグラフ・紙、79×54.5
■リチャード・ロング [1945 – ] 
「8日間の白神山地歩行」シリーズ、1997年、 テキストを伴った写真 (5点)
■エイドリアン・パイパー [1948 – ] 
『肉になる肉』、1968年、写真 (9点) 、各63.82×62.8
■ヴィト・アコンチ [1940 – ] 『接近』、1970年、写真 (4点) 、テキスト紙片 (1点) 、95.3×76.2 (ボードサイズ)

特別史跡 三内丸山遺跡出土の重要文化財

縄文の表現

特別史跡三内丸山遺跡は我が国を代表する縄文時代の拠点的な集落跡です。縄文時代前期中頃から中期終末 (約5500年前 – 4000年前) にかけて長期間にわたって定住生活が営まれました。これまでの発掘調査によって、住居、墓、道路、貯蔵穴集落を構成する各種の遺構や多彩な遺物が発見され、当時の環境や集落の様子などが明らかとなりました。また、他地域との交流、交易を物語るヒスイや黒曜石の出土、DNA分析によるクリの栽培化などが明らかになるなど、数多くの発見がこれまでの縄文文化のイメージを大きく変えました。遺跡では現在も発掘調査がおこなわれており、更なる解明が進められています。
一方、土器や土偶などの出土品の数々は、美術表現としても重要な意味を持っています。当時の人間が抱いていた生命観や美意識、そして造形や表現に対する考え方など、縄文遺物が放つエネルギーは数千年の時を隔てた今もなお衰えず、私達を魅了し続けています。
青森県立美術館では国指定重要文化財の出土品の一部を展示し、三内丸山遺跡の豊かな文化の一端を紹介します。縄文の表現をさまざまな美術表現とあわせてご覧いただくことにより、人間の根源的な表現について考えていただければ幸いです。

マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の背景画

青森県は1994年に、20世紀を代表する画家、マルク・シャガール (1887 – 1985) が制作した全4幕から成るバレエ「アレコ」の舞台背景画中、第1幕、第2幕、第4幕を収集しました。
ユダヤ人のシャガールは1941年、ナチの迫害から逃れるためにアメリカへ亡命します。バレエ「アレコ」の舞台美術は、画家がこの新大陸の地で手がけた初の大仕事でした。
1942年に初演をむかえたバレエ「アレコ」の振付を担当したのは、ロシア人ダンサーで、バレエ・リュスで活躍したレオニード・マシーン。音楽には、ピョートル・チャイコフスキーによるイ短調ピアノ三重奏曲をオーケストラ用に編曲したものが用いられ、ストーリーはアレクサンドル・プーシキンの叙情詩『ジプシー』を原作としていました。
シャガールは祖国ロシアの文化の粋を結集したこの企画に夢中になり、たくましい想像力と類いまれな色彩感覚によって、魅力あふれる舞台に仕上げたのです。

・『アレコ』第1幕 《月光のアレコとゼンフィラ》(1942年/綿布・テンペラ/887.8×1472.5cm)
・『アレコ』第2幕 《カーニヴァル》(1942年/綿布・テンペラ/883.5×1452.0cm)
・『アレコ』第4幕 《サンクトペテルブルクの幻想》(1942年/綿布・テンペラ/891.5×1472.5cm)

奈良美智 『八角堂』

レストランやミュージアムショップの裏側に位置する野外のスペースには、奈良美智のコミッションワーク『八角堂』が見られます。八角形のお堂の中に、《Shallow Puddles Ⅰ/浅い水たまり Ⅰ》 (2004年) と題された6点の皿場の絵がひっそりと収められています。礼拝堂を想わせる神秘的な空間をお楽しみ下さい。
*美術館本体の開館と同じ時間帯に、無料でご入場いただくことができます。