春のコレクション展 / コレクションの力、青森の力

2011年4月9日(土) ━ 6月12日(日)

コレクション展 終了
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春のコレクション展 / コレクションの力、青森の力

テーマについて

コレクションは美術館の出発点です。世界中どこの美術館でも、コレクションの基礎的な調査研究が展示に反映され、個々の活動を特徴づけています。
県立美術館では、開館以来、作品を所蔵するシャガールや棟方志功といった巨匠たちについて研究・紹介する一方、津軽や下北の風景を撮り続けた青森出身の写真家・小島一郎や、ウルトラ怪獣の原画で知られる成田亨といった作家たちにも新たな光をあて、広く紹介してきました。そうした過去4年間の活動の成果として、県立美術館の所蔵作品を常設・企画の全展示室を使って公開します。
青森出身の主要な作家と同時代の県内外の作家たちを併せて展示するこの機会に、青森の個性的な芸術の魅力、そしてその影響の大きさを感じていただけると幸いです。
また本展は、青森県の文化拠点としての県立美術館が未曾有の震災からの復興に向けて発信する展覧会の第一弾として開催するものです。本展が青森県、そして東北が持つ豊かな力を再確認する機会となることを、あわせて願っております。

奈良美智「幽霊アザラシ」 1995年 ©yoshitomo Nara

奈良美智「幽霊アザラシ」 1995年 ©yoshitomo Nara

村上善男「汎」 1957年

村上善男「汎」 1957年

小島一郎「つがる市木造」 1958年 個人蔵(当館寄託) ©小島弘子

小島一郎「つがる市木造」 1958年 個人蔵(当館寄託) ©小島弘子

開催概要

会期

2011年4月9日(土) – 2011年6月12日(日)

展示内容

展示室A | 野澤如洋と蔦谷龍岬:異端の表象

このコーナーでは青森県出身の日本画家、野澤如洋と蔦谷龍岬の作品を紹介します。
野澤如洋は速筆による馬の絵で知られますが、その画業の真価は山水図の方にあると言われています。
如洋が活躍したのは、横山大観、菱田春草らがおしすすめた没骨法によって近世以前の絵画の特徴であった線描の伝統が急速に失われ、代わって、いわゆる「日本画」が成立した時代。そんな中、如洋は時代遅れになりつつあった伝統絵画の線描にこだわり続け、独自の画業を切りひらいていきました。
自由奔放な構図と墨の微妙な運用、さらには画面の余白を巧みに使うことで、見事な空間性を獲得している如洋の作品。類いまれな精神力と描写力によって破綻のない画面を仕上げ、そこに自身の自然観を的確に表出させているのです。

蔦谷龍岬は文部省美術展覧会(文展)の第9回展で「静日」が初入選して以降、一貫して官展系の展覧会を舞台に活躍した作家です。龍岬は次々と特選を重ね、やがて委員や審査員も歴任するなど将来を嘱望されましたがが、1933(昭和8年)、惜しくも48歳の若さでこの世を去りました。
藤原時代の絵巻物や古扇面といった大和絵を参考にしつつ、そこに濃厚な詩情を付加する画風を特徴とした龍岬の作品もまた、「きれい」や「美しい」といった印象を越えた得も言われぬ情感をたたえています。
如洋と龍岬の作品からは、作家の強烈な個性と芸術に対する強い信念が読み取れます。両者の表現もまた「青森の力」と無縁ではないでしょう。

展示室B | 土のいのち:民芸作家の陶作品

棟方志功が1936年、出世作となる「大和し美し」を国画会に出品したとき、作品のあまりの大きさに部分のみの展示とされそうになったのを救い、一早く棟方を評価したのが陶芸作家の濱田庄司でした。その後、棟方は柳宗悦を識り、民芸運動の中心となった河井寛次郎の教えをうけるなど、民芸運動と密接な関係を持つようになります。青森県立美術館では棟方とかかわりの深い、彼ら民芸作家の作品も収集しています。棟方が「板画」の名のもと板木のいのちを彫りだそうとしたように、民芸運動に集った陶芸家たちは、地方の窯から生まれた陶芸や、イギリスの伝統的な陶器をモチーフとし、過剰な装飾よりも用の美に重点を置き、素朴で力強い土のいのちを感じさせる造形を行いました。この展示室では、濱田・河合の作品に加え、濱田や柳とともに日本民藝館設立にかかわったイギリス人の陶芸家、バーナード・リーチの作品を展示します。

展示室C | 工藤哲巳:あなたの肖像

1950年代から欧米を中心に巻き起こった既成概念を打ち破るような芸術運動が次々と日本に紹介され、工藤哲巳をはじめとする日本の若い芸術家達はこうした動きを受け止めながら、自分たちのエネルギーをぶつける創造の場や新たな表現を模索していきました。それはキャンバスに筆で描く、ノミをふるって彫刻を創るといった従来の美術の概念をはるかに超えたものとなり、当時の美術評論家から「反芸術」と称さたのです。
工藤は「反芸術」の旗手として活躍した後、1962年からパリに拠点を移し、晩年の1987年に東京芸術大学教授となり帰国するまでの20数年間、ヨーロッパの閉塞した社会をショッキングな表現方法で挑発し続けました。2008年にはアメリカで大規模回顧展が開催されるなど、その活動は近年さらに評価が高まっています。
工藤は自らの作品を「社会評論の模型」と呼びました。1960年代には、過去の栄光にすがるだけで不能化されたヨーロッパ社会を痛烈に批判し、「あなたの肖像」シリーズを制作します。「あなたの肖像」とは、現代ヨーロッパ文明が抱える問題点とそこに生きる人々を、「これがあなたたちの姿そのものだ」と批判的、挑発的に表現したシリーズです。この不能化されたヨーロッパを徹底的に批評するために、工藤はあえてショッキングな表現、猥褻な表現を組み合わせて攻撃しました。その反応を見ながら、相手を分析し、また新たな挑発を繰り返していったのです。
1970年代に入ってから、工藤が取り組んだ新たなテーマは「環境汚染」でした。人間が豊かさを追及する一方、自動車の排気ガス、工場からの排煙、廃水など、自らが作り出した環境汚染、自然破壊に苛まれている。自分たちが作り出した文明社会が自分たちを圧迫していることを認識しつつも、自ら克服できずにいる「不能さ」。つまり、どうしようもなく立ち行かなくなった人間と自然との関係、人間と機械との関係をいったんご破算にして新たな関係性を築かなければならない、という意見表明を行っているのです。
繁栄を誇るかにみえる近代文明を独自の視点から捉え、現代社会における人間の在り方に深い疑問を投げかけ、ショッキングな表現で人々の前に提示し続けた工藤哲巳。その深い思索と哲学に裏打ちされた作品が発する「警告」は、現在もなお我々に鋭く迫ってきます。

展示室D前廊下 | 澤田教一:安全への逃避

1965年9月6日、その日、米海兵隊は、ベトナムのクィニョンという川沿いの村で、掃討作戦を実行していた。ベトコン狙撃兵の発砲を受けた米軍が、ナパーム弾で空から村に攻撃を仕掛けようとした時、避難を呼びかけられた村人の一群が川へ飛び込んだ。対岸にいたカメラマン・澤田教一は、着のみ着のまま必死に泳いでくる親子の姿を見逃さなかった。《安全への逃避》という名で「ワシントンポスト」をはじめ、数々の紙面を飾ったこの一枚の写真は、その年の第9回世界報道写真展のグランプリを、翌年には、ジャーナリズムの最も権威ある賞とされるピュリッツァー賞を与えられる。澤田がベトナムの戦場で本格的な取材を開始して、わずか2ヶ月ほどの内に撮った写真であった。
1936[昭和11]年、青森市寺町(現在の本町)に生まれた澤田は、青森高校を卒業後、三沢基地内の写真店で働きながら写真を学ぶ。1961年夏、プロのカメラマンを目指して上京。半年後、三沢時代に知り合った米軍将校の紹介でUPI通信社東京支局写真部に入社してからは、戦場カメラマンの道をまっしぐらに突き進む。
《安全への逃避》以後も澤田は、第10回世界報道写真展で第一位、第二位を受賞した、《泥まみれの死》(1966年)、《敵をつれて》(1966年)など、たて続けに傑作を生み出している。そして1970年3月にはクーデターの勃発で混乱を極めるカンボジアで取材を始める。同年の10月、UPIプノンペン支局長とともにプノンペン近郊に取材に出かけた澤田は、移動中にクメール・ルージュと思しき一群の銃弾に倒れる。34歳だった。
わずか5年ほどの報道カメラマンとしてのキャリアの中で、生命を危険にさらしながらカメラでもぎ取った戦場の過酷な現実。澤田の写真は、ベトナム戦争の真実をもっとも雄弁に語るイメージとして、世界中で高い評価を得ている。

展示室D | 1950~60年代、戦後日本美術の歩み

工藤哲巳が作家としての活動を開始した1950年代後半は、経済の高度成長と政治の混乱によって人々の生活や価値観が大きく変わった時代。そうした世相を受けて、多くの若い作家たちが旧来的な芸術観を否定し、新しい価値を創造するべく様々な実験的試みを行いました。
関西においては1954年に活動を開始した具体美術協会が、各種のパフォーマンスや身体的行為と密接に結びついた作品で注目を集め、関東でも東京都美術館で毎年開催されていた「読売アンデパンダン展」を主な舞台として、廃品や既製品など様々な素材を用いた作品や、挑発的な表現が多く見られるようになっていきます。1960年代以降、こうした動向は一気に拡大し、美術の概念は大きく広がりをみせていったのです。
本コーナーでは、そうした1950年代~1960年代の美術状況を映し出した作品を紹介いたします。多様かつ混沌とした、そして何よりも新しい価値を作ろうとする強烈なエネルギーに満ちた作品の数々をとおして、日本の高度成長期の時代相を振り返り、現代に与えた影響の大きさについて考えてみてください。

展示室E | 青森県の近代洋画:松木満史を中心に

青森県の近代洋画の発展において、もっとも重要な役割をはたしたのが松木満史()です。「白樺」に代表されるような大正ヒューマニズムの洗礼をうけた松木は、大正末、まだ十代のころに、志を同じくする画友の棟方志功、鷹山宇一、古藤正雄と語らって青森市で美術団体「青光画社」をたちあげ、公募展を行い、画家への第一歩を踏み出しました。棟方たちと競い合うように上京し、国画会に所属した松木は、1938年、フランスに渡り、油彩の本場で学びますが、戦争の激化により志半ばで帰国。その後は青森市に美術研究所を作り、芸術への厳しい姿勢を保ち、数多くの後進を育てました。
この展示室では、松木と青光画社の仲間たちの作品を挟み、彼らの前の世代、本格的な洋画を青森で展示し、彼らに大きな影響を与えた木谷末太郎や、今純三の作品、松木の薫陶をうけ、国画会の後輩として活躍した小館善四郎、渡辺貞一、名久井由蔵、石ケ森恒蔵といった画家たちの作品を展示し、それぞれの個性を豊かに発揮した青森の近代洋画の歩みを紹介します。

アレコホール | マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の背景画

青森県は1994年に、20世紀を代表する画家、マルク・シャガール (1887 – 1985) が制作した全4幕から成るバレエ「アレコ」の舞台背景画中、第1幕、第2幕、第4幕を収集しました。
ユダヤ人のシャガールは1941年、ナチの迫害から逃れるためにアメリカへ亡命します。バレエ「アレコ」の舞台美術は、画家がこの新大陸の地で手がけた初の大仕事でした。
1942年に初演をむかえたバレエ「アレコ」の振付を担当したのは、ロシア人ダンサーで、バレエ・リュスで活躍したレオニード・マシーン。音楽には、ピョートル・チャイコフスキーによるイ短調ピアノ三重奏曲をオーケストラ用に編曲したものが用いられ、ストーリーはアレクサンドル・プーシキンの叙情詩『ジプシー』を原作としていました。
シャガールは祖国ロシアの文化の粋を結集したこの企画に夢中になり、たくましい想像力と類いまれな色彩感覚によって、魅力あふれる舞台に仕上げたのです。

展示室F | 奈良美智:「Hula Hula Garden」、「ニュー・ソウルハウス」

青森県弘前市出身の奈良美智 (なら・よしとも) は、弘前市の高校を卒業後、東京と名古屋の大学で本格的に美術を学び、1980年代半ばから絵画や立体作品、ドローイングなど、精力的に発表を続けてきました。青森県立美術館は、1997年から奈良美智作品の収集をはじめ、現在その数は150点を越えます。
『Hula Hula Garden』と『ニュー・ソウルハウス』という2点のインスタレーション (空間設置作品) を中心に、奈良美智の世界をご紹介します。

展示室G | 寺山修司:青少年のための寺山修司入門

寺山修司が活躍した1960~70年代はいわゆるアングラ文化が全盛の時代でした。高度成長によって近代化が急速に進む一方、社会的な構造と人間の精神との間に様々な歪みが生じ、そうした近代資本主義社会の矛盾を告発するかのように権力や体制を批判、従来の価値観を否定していく活動が盛んとなっていったのです。特に寺山は大衆の興味や関心をひきつける術に特異な才能を発揮しました。演劇や実験映画ではそれが顕著で、演劇、映画のあらゆる「約束事」が否定され、感情や欲望を刺激するイメージで覆い尽くされた寺山の斬新な作品は多くの人々を虜にしていきました。
このコーナーでは、寺山が主宰したアングラ文化の象徴とも言うべき「演劇実験室◎天井棧敷」のポスター18点と、豊かなイメージの世界を描いた数々の実験映画を、寺山の片腕として活躍した森崎偏陸による編集によって紹介いたします。

棟方志功展示室 | 神仏の世界

代表作《二菩薩釈迦十大弟子》をはじめとして、棟方は神仏を題材として数多くの作品を制作しています。
1936年、柳宗悦ら民芸運動の指導者の知遇を受けた棟方は京都の陶芸家・河井寛次郎のもとで禅の講義を受けたり寺社仏閣を見学するなど遊学の機会に恵まれ、仏の世界をテーマにした板画《華厳譜》を生み出しました。《華厳譜》は華厳経をもとに制作した作品ですが、棟方は経典の幻想的な部分に発想を得て自分の表現も取り入れて自由に制作しています。
「顔が三つもあったり、又十一もあったり、手が八本もあったり、多くは千本もあったりする御仏像の美しい幻想が私の画心を捉えて離しませんでした。」(『板散華』華厳譜)
火炎に包まれた不動明王の憤怒の表情、菩薩の慈悲深いおおらかな顔など、仏の様々な姿を板木に刻みたいと感じたと述べています。仏の無限の世界、幻想の世界にかきたてられ棟方は独創的な作品を数多く制作しました。
今回の作品では、神仏を描いた棟方の数多くの作品のなかから、墨一色で摺られた力強いユニークな作品を紹介します。

展示室N | 林田嶺一:満州ポップ

林田は1979 年頃から満州での幼年期から引き揚げ帰国までの記憶をテーマに作品を制作、発表してきました。
2001年、67 歳の時、連作33 点で構成したインスタレーションを現代美術新人作家の登竜門と言われた「キリンアートアワード」に出品し、優秀賞を受賞。遅れてきた新人と評されました。
その作品群は戦時下の体験をモチーフにしたものながら、重くなりがちなテーマをポップな感覚で表現し、これまでの戦争画とは対極にある華麗で鮮烈なイメージを表出させている点にその特徴があります。かつての満州国は中国、日本、ロシア、ヨーロッパなどの様々な文化が流入していた地域で、林田は幼少時の記憶の断片を構成しながら、かつて存在していたであろう豊かな光景を再構築していったのです。
このコーナーでは平成21年度に作家より一括して寄贈いただいたシリーズ44 点のうちから7 点を紹介します。

展示室O | リチャード・ロング:白神山地を歩く

ロングは、1997年5月末、世界遺産・白神山地に青森県側から入山し、8日間にわたり単独歩行しました。この「歩行」の中で、フォトワーク『白神山地歩行シリーズ』が生み出されました。「青い森の歩行」、「キャンプ地の石」、「初夏の円環」、「白神の線」、「白神の円環」の5点からなるこのシリーズは、作家自身がそこに存在したことを示すわずかな痕跡を含んだ風景写真と短いテキストから成っています。
白神山地下山後、作家は「白神で自分の存在は地を這う小さな虫のようなはかないものだった」と語ったと伝えられています。あらゆる人為の影響を免れた世界最大のブナの原生林の中に、きわめてひそやかに残された人為の造形。それは、一方で周囲の自然に対する限りない畏敬の念の表れでありながら、他方では、その大いなる自然を前に、はかなく消え入りそうになる自らの存在をつなぎとめようとするささやかな抵抗の表れでもあります。

展示室P,Q | 鈴木理策:青森県立美術館

美術館の設計者である青木淳の依頼により、鈴木理策は開館前の美術館を計5 回訪れ、多くのシャッターを切りました。その成果は『青木淳 JUNAOKI COMPLETE WORKS 2 AOMORI MUSEUM OF ART』(INAX 出版、2006 年)にまとめられていますが、それらは単なる「建築写真」や「1 枚の作品」という概念を越え、鈴木理策という作家の存在が強く刻み込まれた、「場」、そして「意識」の連続する物語性を強く持っています。青森という地域と美術館という建築の関係性を鈴木の視点で表現したロードムービー的な連作とも言えるでしょう。一方で、個々の作品においても、美術館の空間としての強度やディテールの質感が、静かに、そして強く捉えられており、漫然と美術館を歩くだけでは見落としてしまいがちな建築としての魅力も存分に伝えてくれます。

展示室M | 成田亨:怪獣デザインの美学

成田亨(1929-2002)は、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」という初期ウルトラシリーズのヒーロー、怪獣、宇宙人、メカをデザインし、日本の戦後文化に大きな影響を与えた彫刻家兼特撮美術監督です。美術家としての高い感性によってデザインされたヒーロー、怪獣は、モダンアートの成果をはじめ、文化遺産や自然界に存在する動植物を引用して生み出される形のおもしろさが特徴です。誰もが見覚えのあるモチーフを引用しつつ、そこから「フォルムの意外性」を打ち出していくというその一貫した手法からは成田の揺らぐことのない芸術的信念が読みとれるでしょう。

展示室L | ×Aプロジェクト:津軽とL

ここ展示室Lは青森県立美術館の中で最も小さい展示室です。40平米ほどのこの空間に津軽と関わった三者の写真を展示します。
小島一郎(1924-64)は昭和30年代、青森県内をくまなく歩き、津軽や下北の風景を撮り続けた青森市出身の写真家です。小島の津軽の写真の多くは、昭和32年から、プロになるために上京する昭和36年までの約4年間に撮られました。「青森駅から奥羽線に乗り、弘前の手前の川部駅で五能線に乗りかえて、五所川原あるいは木造で下車して津軽半島に向かって北上する」(小島一郎「雪の津軽を撮り続ける」、『カメラ毎日』1960年8月号)。これが写真家の決まりの撮影コースでした。ご遺族の寄託品の中から、津軽を撮った写真の密着焼きアルバムや200点を超えるネガケースなど、繰り返された写真家の津軽撮影行を伝える資料を中心に展示します。
大阪府出身の森山大道(1938- )は、”アレ・ブレ・ボケ”の写真で昭和40年代の写真界に革新をもたらしてから現在いたるまで、最前線で活躍してきた写真家です。森山は昭和50年代に入ってから、東北や北海道などの北日本を好んで訪れ、撮影を行っていました。昭和51年に「五所川原」という地名に魅かれて津軽を旅したときは、十数年前の小島一郎とほぼ同じ場所にも足を運んでいます。その頃に撮った写真が、昨年初めてまとまった形で発表されました(タカ・イシイギャラリー/東京)。「津軽」のシリーズの一部を展示します。
美術家である弘前市出身の奈良美智(1959-)にとって、写真は表現手段の一つですが、主要なものではありません。写真に対するアプローチはとても軽やかで、カジュアルで、私たちが日常で写真を撮る感覚と似ています。よく見ると、写し出された動物や人の姿は、どこか奈良が描く絵を思い起こさせます。画家がキャンバス上に繰り広げる果てしなく自由な想像力の源泉には、このような映像の集積があるのかもしれません。タイへの旅の途中で撮った写真を展示します。
「私のあいする、ふるさと津軽の姿」(小島)と、「いつも後ろ髪引かれた街」(森山)と、あえて語られぬ津軽(奈良)。時間と場所が大きなずれを起こしながら連なっていく三者の写真で空間を満たしながら、戦後の津軽の一風変わったポートレートを描いてみます。

 

■出品作家
小島一郎 (写真家 / 1924-1964)
森山大道 (写真家 /1938- )
奈良美智 (美術家 /1959-)
[協力]森山大道、奈良美智、小島弘子、タカ・イシイギャラリー、杉戸洋(敬称略)
※作品を貸与してくださった個人コレクターの方々に心から感謝申し上げます。

 

◎「×(バイ)A(エー)プロジェクト」は、青森県立美術館のコレクションと建築空間の新たな魅力を引き出すための継続的プロジェクトです。
国内外のアーティストの作品やさまざまな創造の分野で活躍する人たちの発想など、青森県立美術館のコレクションあるいは建築空間に、新しい可能性を切り開く実験的な要素をかけ(×)合わせることで、その特性と普遍性について考えます。

展示室J | 小島一郎:津軽-下北

大正 13(1924)年、青森市大町で、玩具と写真材料を扱う商店の長男として生まれた小島一郎は、青森県立商業学校(現 : 青森県立青森商業高等学校)を卒業後、出征。戦後の混乱期を経て、昭和 29 年頃から本格的に写真を始めます。

津軽平野の秋の田で日がな一日働く農夫たち。寒風吹きすさぶ下北の浜辺で、必死に 船を引き揚げる漁師。郷土、青森に生きる人々への深い共感を、覆い焼きや複写の技法 を駆使しながら、印画紙に刷り込むようにして力強く焼きつけた写真の数々は、39歳という早すぎる死の後も、展覧会や写真雑誌で取り上げられ、近年その評価は高まり続けています。

今回は、遺族から当館に寄託されている3,000点以上におよぶ作品と資料の中から代表作を展示いたします。

展示室K | 「縄文」と小野忠弘

弘前市に生まれ、1942 年から福井県に在住して制作活動を続けた小野忠弘 ( 1913 – 2001)。縄文文化を原点として悠然と自己の芸術を追究したその作風は、フランスの批評家ミシェル・タピエに「世界に通じる日本的作品」と絶賛されたほどです。
本コーナーでは、原初の混沌がもつ実在感、秩序以前の生命力を探求した小野作品と、三内丸山から出土した縄文遺物とあわせて紹介することで、「縄文」と「現代」の表現における共通性を探ります。数千年の時を越えて出会う2つの時代の表現。その間、人の行き方や暮らしぶり、社会の構造などは大きく変化しましたが、どんなに時を経ても変わらないものがあるはずです。生の喜びと死の恐怖、素材に対する意識や色彩感覚、さらには呪術的要素など、人間という存在が生み出す表現の「親和性」について考えてみてください。

展示室I | 斎藤義重:思考する板

絵画や彫刻といったジャンル分けを超えた独自の表現を追求した斎藤義重(1904-2001)。
1960年代以降は、電気ドリルを使って合板に線を刻んだ連作を発表することで作品の物質性に重点をおき、1970年代末からは空間を取り込んだ立体作品へと移行していきました。
今回は、後期作品の重要な素材であった板(主にスプルース材)に着目し、その幾何学的な構成による作品を紹介します。そこでは、木の素材感が可能な限り消された板が多様に重なり、また複雑に構成されることで、板と板との緊張感ある関係、そして板と空間との豊かな関わりが追求されています。何を示し、何を意味するかではなく、純粋なる「もの」として存在するこれら作品は、受け手に思考と解釈を要求します。ただし、そこに何らかの「正解」がある訳ではありません。作品をきっかけとして、それぞれの思索や感性を深化させていくこと。「分かりやすさ」が重視される現代において、斎藤が残した作品群はより重要な意味を持ちはじめているのではないでしょうか。

展示室H | 馬場のぼる:“ネコばば”と仲間たち

馬場のぼるは、絵本「11ぴきのねこ」シリーズの作家として知られる青森県三戸町出身の漫画家です。一冊目の『11ぴきのねこ』は1967(昭和42)年に出版された作品ですが、40年以上を経た現在もなお、多くの子どもたちに愛され続けています。
昭和を代表する漫画家、横山隆一をして「馬場のぼるにはネ。『ネコ』を描かせたくない・・・あんなスゴイ猫はいかん。ばばネコは禁じ手だよ。」と言わしめた馬場のぼるを、漫画家仲間たちは敬意を表して、猫を描く名人“ネコばば”と呼んでいました。
今年は馬場のぼる没後10年にあたります。今回の展示では、馬場のぼるのイラスト原画を展示するとともに、馬場のぼるが長年活動を共にし、よき遊び仲間でもあった「漫画家の絵本の会」メンバーのうち5人の漫画家によって描かれた馬場のぼるへのオマージュ作品をあわせて展示します。