冬のコレクション展

2010年12月4日(土) ━ 2011年3月27日(日)

コレクション展 終了
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冬のコレクション展

展示のみどころ

2010年冬のコレクション展では、東北新幹線全線開業を記念して、青森およびゆかりの代表的アーティスト11名を一部屋ごとの個展形式で展示します。
谷崎潤一郎作品から謡曲まで、様々な文芸の世界とのコラボレーションから独創性に溢れた作品を数多く制作した棟方志功。1960年から70年代にかけてアングラ文化の象徴として演劇や実験映画の世界を中心に前衛的な作品を発表して話題をさらった寺山修司。戦後、近代化の波にのみこまれつつある高度成長期の日本において、北辺の地に立脚して写真を撮り続けた小島一郎・・・。青森の風土が生んだ美術家たちの、その多面的な魅力を紹介します。

小島一郎 下北郡大間町  1961年 個人蔵 ©小島弘子

小島一郎 下北郡大間町  1961年 個人蔵 ©小島弘子

横尾忠則 天井桟敷定期会員募集  1967年 ©株式会社テラヤマ・ワールド

横尾忠則 天井桟敷定期会員募集  1967年 ©株式会社テラヤマ・ワールド

開催概要

会期

2010年12月4日(土) – 2011年3月27日(日)

展示内容

棟方志功展示室|文芸の世界

文学を好んだ棟方志功(むなかた・しこう)(1903-1975)は詩歌や小説、また謡曲など様々な文芸作品を題材に板画を制作しました。

 

謡曲「善知鳥」をテーマに描いた《勝鬘譜善知鳥版画曼荼羅》(昭和13年)は、謡曲のもつ幻想的な世界を白と黒で表現しています。この作品は第2回新文展において版画として初の特選を受賞、棟方が板画家としての地歩を固める契機となりました。
昭和20 年代以降は、《炫火頌》(歌・保田與重郎/ 昭和23 – 47年)、《胸形変》(句・石田波郷/ 昭和26年)、《流離抄》(歌・吉井勇/ 昭和28年)、《青天抄》(句・原石鼎/ 昭和30 – 31年)、《歌々板画柵》(歌・谷崎潤一郎/ 昭和31年)等々、文人たちの歌集、句集による数十点もの連作板画を次々と制作しています。詠まれた歌の情景を描き表すだけでなく文字までも彫り込み、絵と一体化させているという特色があります。自らも短歌を詠み句作をする棟方にとって、連作板画はとても楽しんで制作できたといいます。

 

さらに、棟方は数多くの本の装幀、挿絵を手がけました。なかでも谷崎潤一郎の小説「鍵」の挿絵として制作された《鍵板画柵》(昭和31年)は59点もの枚数からなる大作で、各場面を細やかな線で装飾的に描きながら谷崎小説の官能的なイメージを表現しています。
優れた文芸作品に魅了され棟方は数々の独創的な板画を生み出しました。文芸と棟方板画のコラボレーションをお楽しみ下さい。

展示室P,Q | 今純三、関野凖一郎 版画への挑戦

「今純三のアトリエは、美術的な一つの磁場であった。美術を志向する青年たちがひかれるように、このアトリエを訪ねた。教えをこうひと、実際的な指導を受けたり、美術への開眼に導かれるなど、青年たちは多くのことを感得したのである。それは純三の人柄とアトリエの雰囲気に、芸術の世界に手を触れるような体験があったからである。青年たちはこのアトリエからどんなに多くを学んだかしれない。」
(濱田正二「回想の今純三-緑のアトリエ」)

 

1929(昭和4)年、青森市の合浦公園裏に一軒のアトリエが建てられました。アトリエの主は、今純三(こん・じゅんぞう)(1893 – 1944)。1893(明治26)年弘前市に生まれた純三は高等小学校卒業と同時に一家で上京し、青年時代を東京で過ごしました。東京時代の純三は洋画家を志して官展等に出品、入選を果たすなど意欲的に制作活動に打ち込んでいました。しかし、1923(大正12)年の関東大震災によって純三の生活は一変します。壊滅状態に陥った東京で生活の基盤を失った純三に対して兄・和次郎は青森に転居するよう強く促し、同年末、純三は青森市にたった一人で帰郷しました。

 

青森に居を構えた純三は、生活の糧を得る目的から印刷の仕事に従事したことを契機に石版画、銅版画等の研究に独力で着手していくことになります。当時、専門的な制作道具が容易に入手できるはずもなく、東京時代に手にした銅版画の技法書を片手に、材料や道具からプレス機に至るまで手近に入手できる日用道具等を利用して手作りするなど独自の研究を積み重ね、数多くの版画作品を制作していきました。

 

また、純三は、その研究の成果を広く普及することにも力を尽くしました。銅版画はもとより、本格的な油彩画制作に携わる人も少なかった当時の青森において、東京で画家としての確かな技術を身につけていた純三のアトリエには、美術に関心を寄せる人々、美術家を志す若者達がこぞって訪れ、創作について学んだと言われています。そのほか、図画教育に携わる人達に向けての版画入門書執筆や、さらには版画講習会の講師をつとめるなど、自らの知識や技術を惜しみなく提供しました。
戦後、青森県は版画、あるいは版画教育が盛んな土地として全国的に知られることになりましたが、その背景には今純三という一人の美術家の存在があったことを忘れることはできないでしょう。

 

その後、純三は戦時色が強まりつつある1939(昭和14)年に一家で上京します。戦時下の東京での生活は困窮を極め、過酷な労働により病に冒された純三は、1944(昭和19)年、51歳で死去。同年、制作活動における純三の重要なパートナーでもあったせつ夫人は純三の遺骨とともに帰郷。翌年7月28日の青森空襲でせつ夫人は戦災死しましたが、夫人のもとに大切に保管されていた今純三の作品は奇跡的に戦災を免れ、青森の地に残されました。

 

※今純三の「緑のアトリエ」を訪れた若者の一人に戦後、版画家として活躍した関野凖一郎(せきの・じゅんいちろう)(1914 – 1988)がいます。中学校卒業後、今純三のアトリエに通って石版画、銅版画の手ほどきを受け、戦後は火葬場の煙突が見える東京高円寺の自宅を「火葬町銅版画研究所」と称して開放し、駒井哲郎、浜口陽三、浜田知明らと日本銅版画協会を設立しました。関野凖一郎の銅版画による作品も併せて紹介します。

展示室M | 工藤甲人 女神と自然

工藤甲人(くどう・こうじん)は、1915(大正4)年、現在の弘前市百田に生まれ、戦後、新しい日本画を創り出そうとした美術団体、創造美術・新制作日本画部・創画会を活動の舞台とし、故郷津軽の風土に根ざし、夢幻の世界と現実の世界のはざまを漂う独特の画風を築き上げました。
今回の展示では、工藤の絵を描く精神がそこに集大成された春夏秋冬の四部作『休息』『渇仰』『化生』『野郷仏心』と、北国の自然、そこで生きる人間の心のかたちを女神の姿で描いた代表的な作品、『光昏』と『夢と覚醒』の2 点を展示します。

 

「私自身、特に幻想画家だとは思っていない。ただ心の中の美しい自然を、なるべく素直に、忠実に表現しているつもりであるが、ただそういう自然が現実にはない。というのは、現実の自然は、人為的に破壊され汚される一方で、もはやこの世に人の知らない自然というものは現実には存在しないわけだから、本当に無垢な自然を表現するとなると、どうしても超自然的とならざるを得ない。これからもそうした心の自然を一層美しく描いていきたいと思っている。」
これは、40年前に書かれ、今もって含蓄のある工藤甲人の言葉ですが、その芸術観をよく言い表しています。

展示室L | 石井康治 心象

青森の自然は、多くの作家に創造のインスピレーションを与えてきました。
「永年の夢であった工房を青森に開設いたしました。青森は15年来制作の地としてきた処です。北国の自然はいつも私の心象をとらえてやみません。冬から春への、そして夏から秋への彩りの鮮やかな変化は、南の島の陽光や波の陰影と重なります。一瞬の変化で全てが輝きを増し、色彩が躍動する。……」
(西武百貨店「ガラスに描く光と風 石井康司作品展」1991年)

 

1946年千葉県に生まれた石井康治(いしい・こうじ)(1946 – 1996)は、東京芸術大学卒業後、ガラス工芸作家として活動を開始します。その制作の地として選んだのが、青森でした。青森市にある北洋硝子株式会社において作家として本格的な作品制作を開始した石井は、1991年には青森市三内丸山に念願の工房「石井グラススタジオ青森工房」を開設。1996年11月に急逝するまで、精力的に作品制作に取り組み、青森の自然の中からモチーフを得た多彩な作品を生み出しました。

 

石井康治の作品の特徴は、ガラスというデリケートな素材を用いながらも、あたかも筆で描いているかのように感じさせる豊かな造形力にあります。石井は作品を作る前に作品の原寸大のスケッチを紙に何度も描いて、その動きを手に沁み込ませ、その動きをイメージしながらガラスを造形していったといわれています。そうして出来上がった作品からは、身の回りにある自然の景色を通して自らの内側の世界を見つめ、その内なる世界を光と色に昇華させようとした作家の思いを感じとることができます。

 

また、数百種というオリジナルの色ガラスを用いて幾重にも重ねられた色の層には、青森の自然が織り成す、四季折々の豊かな表情と、その自然が育まれてきた遙かな時間が封じ込められているようにも感じられるのです。
「青森でできた自分の作品を青森の人たちに見てもらえるスペースを作りたい」と生前、作家本人が語っていた志を御遺族が承け、現在、150点余の作品が当館に寄託されています。今回は、その中から11点の作品を紹介します。

展示室J | 成田亨:怪獣デザインの美学

成田亨(なりた・とおる)(1929 – 2002)は、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」という初期ウルトラシリーズのヒーロー、怪獣、宇宙人、メカをデザインし、日本の戦後文化に大きな影響を与えた彫刻家兼特撮美術監督です。美術家としての高い感性によってデザインされたヒーロー、怪獣は、モダンアートの成果をはじめ、文化遺産や自然界に存在する動植物を引用して生み出される形のおもしろさが特徴です。誰もが見覚えのあるモチーフを引用しつつ、そこから「フォルムの意外性」を打ち出していくというその一貫した手法からは成田の揺らぐことのない芸術的信念が読みとれるでしょう。

展示室K | 小野忠弘 砂のなみだ

弘前市出身の小野忠弘(おの・ただひろ)(1913 – 2001)は廃品を利用したジャンク・アートの第一人者として、ヴェネツィア・ビエンナーレに出品するなど、世界的にも高く評価された前衛のアーティストです。福井県の三国町に居を定め、教鞭をとるかたわら、古美術や考古学にも造詣が深く、同地の文化財審議委員などもつとめていました。今回展示するのは戦後、前衛芸術の旗手として活躍していた時期の作品と、最晩年、衰えることのない旺盛な制作意欲をもってジャンク・アートにとりくんでいた時期の作品です。

 

晩年の小野は、「BLUE」をはじめとする廃物を貼り込んでつくられた作品を制作し続けましたが、1998年に長い間連れ添った夫人が亡くなったのちに作られた「くれなゐ」のシリーズは、遺された夫人の日用品を貼り込んで制作されたジャンク・アートの技法による追悼の肖像画のような作品です。
「砂のなみだ」というタイトルにみられるような、無機的な物質と抒情性を結びつけるような独自の感性は、廃物がはりつけられた混沌とした構成の中にも豊かな情感と宇宙的なひろがりを感じさせる作品を生んでいます。廃物や色彩の乱舞から詩をつむぎだす小野忠弘の唯一無二の美意識が織りなす世界をお楽しみ下さい。

展示室I | 斎藤義重 思考する板

絵画や彫刻といったジャンル分けを超えた独自の表現を追求した斎藤義重(さいとう・よししげ)(1904 – 2001)。
1960年代以降は、電気ドリルを使って合板に線を刻んだ連作を発表することで作品の物質性に重点をおき、1970年代末からは空間を取り込んだ立体作品へと移行していきました。
今回は、後期作品の重要な素材であった板(主にスプルース材)に着目し、その幾何学的な構成による作品を紹介します。そこでは、木の素材感が可能な限り消された板が多様に重なり、また複雑に構成されることで、板と板との緊張感ある関係、そして板と空間との豊かな関わりが追求されています。何を示し、何を意味するかではなく、純粋なる「もの」として存在するこれら作品は、受け手に思考と解釈を要求します。ただし、そこに何らかの「正解」がある訳ではありません。作品をきっかけとして、それぞれの思索や感性を深化させていくこと。「分かりやすさ」が重視される現代において、斎藤が残した作品群はより重要な意味を持ちはじめているのではないでしょうか。

展示室H | 小島一郎 都市と地方のはざまで

大正13(1924)年、青森市大町で、玩具と写真材料を扱う商店の長男として生まれた小島一郎(こじま・いちろう)(1924 – 1964)は、青森県立商業学校(現:青森県立青森商業高等学校)を卒業後、出征。戦後の混乱期を経て、昭和29年頃から本格的に写真を始めます。

 

津軽平野の秋の田で日がな一日働く農夫たち。寒風吹きすさぶ下北の浜辺で、必死に 船を引き揚げる漁師。郷土、青森に生きる人々への深い共感を、覆い焼きや複写の技法 を駆使しながら、印画紙に刷り込むようにして力強く焼きつけた写真の数々は、39歳という早すぎる死の後も、展覧会や写真雑誌で取り上げられ、近年その評価は高まり続けています。

 

今回は、遺族から当館に寄託されている3,000点以上におよぶ作品と資料の中から代表作を選び出し、小島一郎の生涯の活動を展観いたします。
戦後、写真に生きる道を見出し、高度経済成長期の激しい近代化の波にもまれながらも、北辺の地に立脚する者として撮影を続けた小島一郎。新幹線の開通により、都市との距離をますます縮めてゆく私たちに、小島の写真は今、多くのことを語りかけているようです。

展示室G|寺山修司 青少年のための寺山修司入門

寺山修司(てらやま・しゅうじ)(1935 – 1983)が活躍した1960~70年代はいわゆるアングラ文化が全盛の時代でした。高度成長によって近代化が急速に進む一方、社会的な構造と人間の精神との間に様々な歪みが生じ、そうした近代資本主義社会の矛盾を告発するかのように権力や体制を批判、従来の価値観を否定していく活動が盛んとなっていったのです。特に寺山は大衆の興味や関心をひきつける術に特異な才能を発揮しました。演劇や実験映画ではそれが顕著で、演劇、映画のあらゆる「約束事」が否定され、感情や欲望を刺激するイメージで覆い尽くされた寺山の斬新な作品は多くの人々を虜にしていきました。
このコーナーでは、寺山が主宰したアングラ文化の象徴とも言うべき「演劇実験室◎天井棧敷」のポスター18点と、豊かなイメージの世界を描いた数々の実験映画を、寺山の片腕として活躍した森崎偏陸による編集によって紹介いたします。

展示室F | 奈良美智:インスタレーション

青森県弘前市出身の奈良美智 (なら・よしとも) は、弘前市の高校を卒業後、東京と名古屋の大学で本格的に美術を学び、1980年代半ばから絵画や立体作品、ドローイングなど、精力的に発表を続けてきました。青森県立美術館は、1997年から奈良美智作品の収集をはじめ、現在その数は150点を越えます。
『Hula Hula Garden』と『ニュー・ソウルハウス』という2点のインスタレーション (空間設置作品) を中心に、奈良美智の世界をご紹介します。

展示室N | 特別史跡 三内丸山遺跡出土の重要文化財

縄文の表現
特別史跡三内丸山遺跡は我が国を代表する縄文時代の拠点的な集落跡です。縄文時代前期中頃から中期終末 (約5500年前 – 4000年前) にかけて長期間にわたって定住生活が営まれました。これまでの発掘調査によって、住居、墓、道路、貯蔵穴集落を構成する各種の遺構や多彩な遺物が発見され、当時の環境や集落の様子などが明らかとなりました。また、他地域との交流、交易を物語るヒスイや黒曜石の出土、DNA分析によるクリの栽培化などが明らかになるなど、数多くの発見がこれまでの縄文文化のイメージを大きく変えました。遺跡では現在も発掘調査がおこなわれており、更なる解明が進められています。
一方、土器や土偶などの出土品の数々は、美術表現としても重要な意味を持っています。当時の人々が抱いていた生命観や美意識、そして造形や表現に対する考え方など、縄文遺物が放つエネルギーは数千年の時を隔てた今もなお衰えず、私達を魅了し続けています。
青森県立美術館では国指定重要文化財の出土品の一部を展示し、三内丸山遺跡の豊かな文化の一端を紹介します。縄文の表現をさまざまな美術表現とあわせてご覧いただくことにより、人間の根源的な表現について考えていただければ幸いです。

アレコホール | マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の背景画

青森県は1994年に、20世紀を代表する画家、マルク・シャガール (1887 – 1985) が制作した全4幕から成るバレエ「アレコ」の舞台背景画中、第1幕、第2幕、第4幕を収集しました。
ユダヤ人のシャガールは1941年、ナチの迫害から逃れるためにアメリカへ亡命します。バレエ「アレコ」の舞台美術は、画家がこの新大陸の地で手がけた初の大仕事でした。
1942年に初演をむかえたバレエ「アレコ」の振付を担当したのは、ロシア人ダンサーで、バレエ・リュスで活躍したレオニード・マシーン。音楽には、ピョートル・チャイコフスキーによるイ短調ピアノ三重奏曲をオーケストラ用に編曲したものが用いられ、ストーリーはアレクサンドル・プーシキンの叙情詩『ジプシー』を原作としていました。
シャガールは祖国ロシアの文化の粋を結集したこの企画に夢中になり、たくましい想像力と類いまれな色彩感覚によって、魅力あふれる舞台に仕上げたのです。

 

・『アレコ』第1幕 《月光のアレコとゼンフィラ》(1942年/綿布・テンペラ/887.8×1472.5cm)
・『アレコ』第2幕 《カーニヴァル》(1942年/綿布・テンペラ/883.5×1452.0cm)
・『アレコ』第4幕 《サンクトペテルブルクの幻想》(1942年/綿布・テンペラ/891.5×1472.5cm)