夏のコレクション展 ×Aプロジェクトno.9 上田信のイラスト世界 / 没後20年 工藤哲巳:前衛芸術家の魂

2010年6月30日(水) ━ 8月29日(日)

コレクション展 終了
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夏のコレクション展 ×Aプロジェクトno.9 上田信のイラスト世界 / 没後20年 工藤哲巳:前衛芸術家の魂

特集

  • ×Aプロジェクトno.9 上田信のイラスト世界
    〜「ミリタリー」、「キャラクター」から「図解」まで (展示室P,Q)

  • 没後20年 工藤哲巳:前衛芸術家の魂 (展示室H.I,J,K,L)
    ※春のコレクション展からの継続展示(展示替えはありません)

展示のみどころ

2010年夏のコレクション展では、ピュリッツァー賞を受賞した「安全への逃避」をはじめとする澤田教一の報道写真、成田亨の怪獣デザイン原画、神仏をテーマに描かれた棟方志功作品を展示するほか、日本の戦後美術に新しい流れを切り拓いた五所川原市出身の美術家、工藤哲巳の作品40点を特集展示します。
また、当館の建築空間やコレクション、展覧会とかけ (×) 合わせることにより、新しい魅力を引き出すためのプロジェクト「×A (バイエー) プロジェクト」No.9では、同時期に開催される企画展「ロボットと美術 〜機械×身体のビジュアルイメージ」との関連企画として、蓬田村出身のイラストレーター、上田信の作品をとり上げます。

上田信 『どら Dra トリオを探せ』 作家蔵

上田信 『どら Dra トリオを探せ』 作家蔵

澤田教一 『1967.10.25. ダナンの南16キロ』 青森県立美術館蔵 ©澤田サタ

澤田教一 『1967.10.25. ダナンの南16キロ』 青森県立美術館蔵 ©澤田サタ

開催概要

会期

2010年6月30日(水) – 2010年8月29日(日)

展示内容

棟方志功展示室 | 躍動する神仏

変幻自在に身を変える仏の三十三の姿を描いた板画『観音経曼荼羅』、手を挙げ足を挙げ舞い踊る神々を描いた『東西南北頌』、経典の世界を女人の姿で表した『湧然する女者達々』など、棟方志功 (むなかた・しこう) (1903-1975) は躍動感あふれる神仏を数多く描いています。白と黒の対比や、墨面に白い描線を彫り起こして描く手法など独自の表現方法で描かれたそれらの作品は、棟方板画の特色の一つである大画面において、いっそう力強さを増しています。
宗教を身近な存在として捉えていた棟方は神仏を型にとらわれることなく自由な姿で描き表しました。棟方の代表作『二菩薩釈迦十大弟子』では、仏弟子たちは表情豊かに描き分けられ様々なポーズをとっており、荘厳でありながらもどこか人間味のある姿をしています。また、板画だけでなく倭画においても自由闊達に筆を走らせています。
ダイナミックに表現された棟方の神仏作品をご紹介します。

展示室P,Q | ×Aプロジェクトno.9

上田信のイラスト世界 〜「ミリタリー」、「キャラクター」から「図解」まで
上田信 (うえだ・しん) は1949 (昭和24) 年青森県蓬田村生まれ。学校教員であった父の転勤で、2年ごとに県内各地を移動し、中学卒業と同時に上京。小松崎茂の最後の内弟子として5年間小松崎と生活を共にし、作画を学びました。その後、モデルガンメーカーMGC宣伝部に就職し、2年後にイラストレーターとして独立。主にミリタリー関連の仕事を中心に活動を続けています。1969 (昭和44) 年、初めて描いたボックスアートであるタミヤ 1/100「ミニジェット機シリーズ」が好評を得、その後、他のメーカーのパッケージも描くようになりました。
上田はまた、著名な軍装品コレクターの一人であり、ミリタリー研究家としても知られています。武器、戦闘シーンの緻密な描写には定評があり、著書『コンバット・バイブル―アメリカ陸軍教本完全図解マニュアル』 (1992年、日本出版社) は台湾等でも翻訳出版され、大きな話題を集めました。現在も、雑誌の挿絵や商品のパッケージイラストを多数担当。ミリタリー、漫画、アニメ、歴史もの、空想科学ものまでジャンルを問わず、また小松崎様式を受け継ぐ絵物語からエアブラシを用いた精密画、カラフルな子供向けイラスト、線描による漫画まで幅広い技法で多彩な作品群を発表していています。
今回は、そうした上田の多彩な活動を、印刷物では分からない原画ならではの魅力ととともに紹介いたします。

展示室M | 澤田教一:安全への逃避

1965年9月6日、その日、米海兵隊は、ベトナムのクィニョン北部にある川沿いの村で、掃討作戦を実行していた。ベトコン狙撃兵の発砲を受けた米軍が、ナパーム弾で空から村に攻撃を仕掛けようとした時、避難を呼びかけられた村人の一群が川へ飛び込んだ。対岸にいたカメラマン・澤田教一 (さわだ・きょういち) は、着のみ着のまま必死に泳いでくる親子の姿を見逃さなかった。『安全への逃避』という名で「ワシントンポスト」をはじめ、数々の紙面を飾ったこの一枚の写真は、その年の第9回世界報道写真展のグランプリを、翌年には、ジャーナリズムの最も権威ある賞とされるピュリッツァー賞を与えられる。澤田がベトナムの戦場で本格的な取材を開始して、わずか二ヶ月ほどの内に撮った写真であった。
1936 (昭和11) 年、青森市寺町 (現在の本町) に生まれた澤田は、青森高校を卒業後、三沢基地内の写真店で働きながら写真を学ぶ。1961年夏、プロのカメラマンを目指して上京。半年後、三沢時代に知り合った米軍将校の紹介でUPI通信社東京支局写真部に入社してからは、戦場カメラマンの道をまっしぐらに突き進む。
『安全への逃避』以後も澤田は、第10回世界報道写真展で第一位、第二位を受賞した、『泥まみれの死』(1966年)、『敵をつれて』(1966年)など、たて続けに傑作を生み出している。そして1970年3月にはクーデターの勃発で混乱を極めるカンボジアで取材を始める。同年10月、UPIプノンペン支局長とともにプノンペン近郊に取材に出かけた澤田は、移動中にクメール・ルージュと思しき一群の銃弾に倒れる。34歳だった。
わずか五年ほどの報道カメラマンとしてのキャリアの中で、生命を危険にさらしながらカメラでもぎ取った戦場の過酷な現実。澤田の写真は、ベトナム戦争の真実をもっとも雄弁に語るイメージとして、世界中で高い評価を得ている。

展示室L,J,K,I,H | 没後20年 工藤哲巳:前衛芸術家の魂

戦後間もない頃、「反芸術」と呼ばれた芸術活動で、20世紀後半の新しい美術の流れを創り出した工藤哲巳 (くどう・てつみ) (1935-1990) が亡くなってから20年が経ちました。本県でも、工藤哲巳が日本の美術に残した大きな足跡についてはまだ知られてはいません。没後20年を機に、工藤哲巳の芸術を再認識していただければと思います。
工藤哲巳は、五所川原出身の画家、工藤正義を父として生まれ、1954年、東京藝術大学に入学します。怒涛のごとく欧米の文化が日本に押し寄せ、様々な価値観の転換が迫られた時代です。美術の世界でも、既成概念を打ち破るような欧米での芸術運動が紹介され始めた頃でした。
たわしなどの既製品や廃品を用い、1960年読売アンデパンダン展に出品された工藤哲巳の作品に、美術評論家の東野芳明が「ガラクタの反芸術」と名付け、「反芸術」ブームを巻き起こしました。戦後間もない頃、当時の若い世代の間にわだかまっていた「鬱積した表現意欲」に火をつけ、戦後の美術状況に熱い一時期を現出させたのです。
1962年パリに渡り、晩年、1987年に東京藝術大学教授となり帰国するまでの20数年間、ヨーロッパの閉塞した社会をショッキングな表現方法で挑発し続け、海外でもその活動は高く評価されました。
60年代、工藤は、過去の栄光にすがるだけで不能化されたヨーロッパ社会を痛烈に批判し、『あなたの肖像』シリーズを制作します。70年代に入ってから、工藤が取り組んだ新たなテーマは「環境汚染」問題でした。自分たちが作り出した機械文明が自分たちを圧迫していることを認識しつつも、自ら克服できずにいる「不能さ」を暴き出したのです。
70年代後半から、眼の前で手を合わせ、合掌するかのように綾取りをしている肖像の作品を制作し始めます。それはいわば工藤自身の肖像というべきもので、自分の死というものを意識し始めたとき、工藤は今まで他人に突きつけた鋭い刃先を自分に向け、内省的、瞑想的になっていきました。
20年近くヨーロッパ社会を挑発し続けた工藤が、自らの死と向き合い、自らを振り返ったとき、自らのルーツに思いを馳せ、津軽、縄文、自分はどこから来て、どこに行くのか、1983年弘前にアトリエを構え、パリと津軽を往復するようになりました。
1986年に制作され、『前衛芸術家の魂』と題された作品には、死をイメージさせるどくろが置かれています。事実、この頃既に工藤は喉頭癌に侵されており、翌年、母校の東京藝術大学教授に就任するも、1990年この世を去りました。
「反芸術の旗手」が辿った30年間の活動の軌跡は、彼の人生そのものの表現、人生そのものでした。
津軽の風土が生んだ偉大な前衛芸術家、工藤哲巳。今回の特集展示は、日本の戦後美術を学ぶ上でも欠かせない展示となっています。

展示室G | 寺山修司幻想写真館

犬神家の人々  〜旧ゴバース・弘子コレクションから
写真家の森山大道、立木義浩、篠山紀信、沢渡朔、鋤田正義らと写真や映画のコラボレーションを続けていた寺山修司 (てらやま・しゅうじ) (1935-1983) は、1973年に自らカメラマンとなることを志し、「アラーキー」こと荒木経惟に弟子入り。
その後、演劇公演の合間をぬって寺山は写真撮影に取り組み、多くの作品が生み出されていきますが、寺山の写真作品は現実を再現したり、日常から真実を切り取るものではなく、虚構の世界を構築することに重きが置かれています。作品は1975年の写真集『犬神家の人々』にまとめられ、フランスの写真雑誌「ZOOM」にも特集記事が掲載されるなど、大きな反響を呼びました。
さらに外国の古道具屋で売られていた古い絵葉書に興味を覚えた寺山は、自分で撮った写真をハガキ大の紙に焼き付けて退色させ、よごれをシルクスクリーンで印刷し、不思議な手紙文を書きつけ、さらに、世界中から集めてきた豪華な切手を貼り、わざわざ特注して作らせたスタンプを押して、手の込んだ偽の絵葉書を制作しました。
やがて「天井棧敷新聞」や演劇理論誌「地下演劇」の表紙が寺山の写真作品で飾られるようになり、さらには平凡パンチの女優グラビアページの撮影も引き受けるなど、写真家としても旺盛な活動を行っていったのです。
このコーナーではそうした寺山の撮影した「幻想写真」の数々を公開いたします。今回の展示作品は、寺山修司の日仏合作映画「草迷宮」「上海異人娼館」のプロデュースや各映画祭 (カンヌ映画祭、エジンバラ映画祭他多数) への出品、また天井棧敷海外公演のコーディネイトを長年努めたゴバース・弘子さんのコレクションです。彼女のプロデュースで、1976年から78年にわたってヨーロッパ各地で開催された写真展「寺山修司◎幻想写真館犬神家の人々」に出品された貴重な作品群です。

展示室0|成田亨:怪獣デザインの美学

青森県出身の成田亨 (なりた・とおる) (1929 – 2002) が手がけた「ウルトラ」シリーズの怪獣デザイン原画を紹介します。
彫刻家としての感性、芸術家としての資質が反映されたそのデザインは、放映後40年がたつ現在もなお輝きを失っていません。
青森県立美術館では、「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」に登場するヒーローやメカ、怪獣、宇宙人のデザイン原画計189点を平成11年度に一括して収集しています。
今回はその中でも人気のある「カネゴン決定稿」「バルタン星人決定稿」「ラゴン」等を展示します。

展示室F | 奈良美智:インスタレーション

青森県弘前市出身の奈良美智 (なら・よしとも) は、弘前市の高校を卒業後、東京と名古屋の大学で本格的に美術を学び、1980年代半ばから絵画や立体作品、ドローイングなど、精力的に発表を続けてきました。青森県立美術館は、1997年から奈良美智作品の収集をはじめ、現在その数は150点を越えます。
『Hula Hula Garden』と『ニュー・ソウルハウス』という2点のインスタレーション (空間設置作品) を中心に、奈良美智の世界をご紹介します。

展示室N | 特別史跡 三内丸山遺跡出土の重要文化財

縄文の表現
特別史跡三内丸山遺跡は我が国を代表する縄文時代の拠点的な集落跡です。縄文時代前期中頃から中期終末 (約5500年前-4000年前) にかけて長期間にわたって定住生活が営まれました。これまでの発掘調査によって、住居、墓、道路、貯蔵穴集落を構成する各種の遺構や多彩な遺物が発見され、当時の環境や集落の様子などが明らかとなりました。また、他地域との交流、交易を物語るヒスイや黒曜石の出土、DNA分析によるクリの栽培化などが明らかになるなど、数多くの発見がこれまでの縄文文化のイメージを大きく変えました。遺跡では現在も発掘調査がおこなわれており、更なる解明が進められています。
一方、土器や土偶などの出土品の数々は、美術表現としても重要な意味を持っています。当時の人々が抱いていた生命観や美意識、そして造形や表現に対する考え方など、縄文遺物が放つエネルギーは数千年の時を隔てた今もなお衰えず、私達を魅了し続けています。
青森県立美術館では国指定重要文化財の出土品の一部を展示し、三内丸山遺跡の豊かな文化の一端を紹介します。縄文の表現をさまざまな美術表現とあわせてご覧いただくことにより、人間の根源的な表現について考えていただければ幸いです。

アレコホール | マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の背景画

青森県は1994年に、20世紀を代表する画家、マルク・シャガール (1887-1985) が制作した全4幕から成るバレエ「アレコ」の舞台背景画中、第1幕、第2幕、第4幕を収集しました。
ユダヤ人のシャガールは1941年、ナチの迫害から逃れるためにアメリカへ亡命します。バレエ「アレコ」の舞台美術は、画家がこの新大陸の地で手がけた初の大仕事でした。
1942年に初演をむかえたバレエ「アレコ」の振付を担当したのは、ロシア人ダンサーで、バレエ・リュスで活躍したレオニード・マシーン。音楽には、ピョートル・チャイコフスキーによるイ短調ピアノ三重奏曲をオーケストラ用に編曲したものが用いられ、ストーリーはアレクサンドル・プーシキンの叙情詩『ジプシー』を原作としていました。
シャガールは祖国ロシアの文化の粋を結集したこの企画に夢中になり、たくましい想像力と類いまれな色彩感覚によって、魅力あふれる舞台に仕上げたのです。

 

・『アレコ』第1幕 《月光のアレコとゼンフィラ》(1942年/綿布・テンペラ/887.8×1472.5cm)
・『アレコ』第2幕 《カーニヴァル》(1942年/綿布・テンペラ/883.5×1452.0cm)
・『アレコ』第4幕 《サンクトペテルブルクの幻想》(1942年/綿布・テンペラ/891.5×1472.5cm)