コレクション展 2020-4:危機の中の芸術家たち

2020年11月28日(土) ━ 2021年2月23日(火)

コレクション展 終了
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コレクション展 2020-4:危機の中の芸術家たち

コレクション展 2020-4:危機の中の芸術家たち

青森県立美術館では今冬「コレクション展2020-4:危機の中の芸術家たち」を開催します。
地球規模での気候変動や新型コロナウイルス感染症の世界的な拡大、Black Lives Matter運動。2020年は人の生存や社会における自由の危機について様々に考えさせられた年です。そんな今年最後のコレクション展として今回は工藤哲巳(*2020年で没後30年)の「社会評論の模型」作品群を中心とし、澤田教一(*2020年で没後50年)によるベトナム戦争下で撮影された写真、今和次郎・純三兄弟による関東大震災後の公共建築や劇場に関する仕事、同時期開催の企画展「阿部合成展」関連として弟子にあたる小坂圭二や成田亨らの作品を紹介。全体をとおして、芸術家たちの想像力や批判精神を手がかりに、私たちが「危機」を基点に、これからの世界を生き延び/つくりなおす感性を養うための展覧会として開催します。

開催概要

会期

11月28日(土)~2021年2月23日(火・祝)

休館日

12月14、28-31日、2021年1月1、12、25日、2月8日

展示内容

展示室N|今和次郎、純三:フィールドワークの小径

本章では弘前出身の今和次郎と今純三による関東大震災とその後の公共建築や劇場をめぐる仕事を紹介します。生活を独自のまなざしで切りとり、採集・分析する「考現学」の創始者であり、建築家やデザイナーとしても知られる兄・和次郎と、関東大震災を機に帰郷し、青森の初期版画文化の立役者として知られる画家/版画家の弟・純三。震災以降の和次郎の、東北地方の飢饉に備えた貯穀倉庫「郷倉」の調査設計、被災者や生活弱者の生活支援活動「セツルメント」への関わりと、同時期の純三による、かつて黒石市に存在した「黒石劇場」舞台背景画制作をはじめとする劇場の仕事は、相互に呼応する部分があるように見えます。ここで参考軸として、震災後の東京で展開されたバラック装飾社の仕事を紹介しておきます。和次郎は仲間とともに「震災バラックの調査を行い人々の巧まざる創意に注目するとともに、バラック装飾社を創設して被災都市の風景が人々に与える心理効果を考慮したアバンギャルドなデザイン」(*1) を施しました。そんな活動が「建築の醇境を知らずして、狂乱と放恣とを跋扈せしむる」(滝沢真弓)という言葉で批判された際、和次郎はこんな言葉を残しています。

 

‘装飾とは…(中略)…人生や世相などを含んだ複雑なるものの…(中略)…感情飛躍の亢奮からの偶然の結果が空間に後付けられることによって生ずる’

 

ここには「生きることの複雑さ=装飾」という和次郎独自の芸術観の発露がみられ、後にこの装飾に対する考え方が郷倉やセツルメントに仮託され設計仕事として内面化された、という見方が可能なように思えます。そんな個と社会をつなぐ建築空間へのまなざしが純三においても相通じており、純三の場合は青森の街の人々の暮らしに取材した版画や黒石劇場の仕事の中で内面化されている、と言えるのではないでしょうか。今回の展示では上記に関連する作品や記録写真を紹介し、二人の東京~東北・青森における「フィールドワーク(野外調査)」をとおして、当時震災という危機に発する生活と美術の連帯を手がかりに、今日の公共性と芸術の関係について考える一助としていただけたらと思います。

 

‘雪国の春ぐらい楽しいものはない…(中略)…吹く風も色調も、回り舞台かのように変わってしまう’ (*2)

 

*1 今和次郎『今和次郎 採集講義』(2011・青幻社、東京)106頁
*2 今和次郎「津軽に残る豪農の家」『民家採集 今和次郎全集(3)』(1971/ドメス出版)

今和次郎
《写真:バラック装飾社の作業場看板》
(1923)

今和次郎
《写真:大越村娯楽場(繭の取引中の平土間を俯瞰撮影)》
(1926頃)

今純三
《大震災風景(バラック小屋)》
(1923)

今純三
《(十)野原》
(1937頃)

※今和次郎の出展写真は画像データを本展のために出力(原資料は工学院大学図書館今和次郎コレクション蔵)

棟方志功展示室|棟方志功:信念の裸婦

明治初期、版画は浮世絵の流れからくる職人的な分業制や量産性から工芸や印刷物の扱いであり、明治末期~昭和初期にかけて「自画・自刻・自摺」を掲げた創作版画運動が最盛期を迎えることで、1927(昭和2)年、帝展第2部西洋画に出品が認められたばかりでした。美術の分野として認められ始めた版画で生計を立てるのは苦しい時代に、油絵画家をめざして上京した棟方は、版画の道へと進む決意を固めていました。その日食べるものがない苦しい暮らしでしたが、チヤ夫人は画業にプラスとなる仕事以外しないでほしいと頼んだといいます。必死になった棟方は歌舞伎座や帝国劇場の売店で版画を売る契約をとったり、文人との交流から雑誌や書籍の挿絵や装幀を手掛けたりしていきます。その間も版画制作に励んだ棟方は独自の表現を展開させるに至り、注目する人も出始めました。そして1936(昭和11)年、国画会展に出品した全長約7mという常識破りの版画絵巻《大和し美し》が転機となり作品が売れ出し、版画家としての生活に光明が差し込みます。常識を打ち破ったのは作品の大きさだけではありませんでした。1934(昭和9)年制作の版画《ヴェニュス生誕》から裸婦像の表現方法を模索し始めた棟方は、幾つかの作品で裸婦像に近づく姿を彫った後、後年《般若心経版画柵》としてまとめられる作品を戦時体制下の1941(昭和16)年から数柵ずつ発表します。そして戦況厳しい1944(昭和19)年に《乾坤頌・灼飛神炎「心経」版画鏡》と題して発表しました。戦意昂揚に資する課題に限られた国主催“戦時特別展”への裸婦像は反逆と捉えかねませんがこの作品にお咎めはなく、戦時体制下に決死の覚悟で生み出した裸婦像は、以後芸業の中心に据えることとなります。
このたびの展示では、苦しい道程と知りながらも版画家になる決意をし、実直に版画と向き合い歩み始めた棟方が、戦時体制下においても表現の模索を止めなかった信念の版画をご覧ください。(本章のみ構成・執筆:棟方志功記念館)

展示室O|小坂圭二:重力/傷/恩寵

‘真空を求めてはならない。なぜなら、真空を充たすために超自然的なパンを当てにするのは神をこころみることになるだろうから’ (*1)

 

本章では野辺地に生まれた彫刻家・小坂圭二の作品を紹介します。自身の戦争体験をもとにキリスト教に惹かれた小坂は38歳で洗礼を受けており、立像や肖像彫刻とともにキリスト教的な主題の作品を多く制作しています。その彫刻は大胆な線と面とによる幾何学的な構成に具象的な要素が交わることで、独自の真空状態とも言うべき空間の生成が促されているように見えます。しかし小坂の彫刻において注目すべきはそうした真空状態の生成以上に、その彫刻がこの現実においてどのような形を伴い現れるのか、ということです。カギとして見るべきは「重さ」です。洗礼後のフランス留学の際に教会で見た十字架の重さに感激し、そのような制作を自身に課したという小坂。彼は自身が夢見た神と人が共にある天上世界を、そのブロンズ彫刻が孕む「重力」という下降の力を媒介に現実化させることを目指した、と言えそうです。一方彫刻表面に現れる激しい線。そこには作家自身の中国やラバウルでの戦争体験の影を見ることができます。例えば《世界の破れを担うキリスト》(1970)には、大きく裂けたザクロに、キリストの肋骨の痛み、傷口の痛々しさを感じて衝撃をうけた経験を造形化されており、ザクロの実(肉体)と地球(世界)とを傷がつなぎ、個と世界を同時に引き受ける存在としてのキリストが表現されています。

 

‘魂の自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される’ (*2)

 

ここに至ることでようやく、調和と混沌が併存する小坂の作品には彫刻の問題として己と世界の「傷」を引き受け他者にひらくこと、そうしてその先に神と人が調和する恩寵空間が目指されていると言うことができます。こうした小坂の制作には、小坂とほぼ時代を同じくしたフランスの哲学者であるシモーヌ・ヴェイユ(1909-43)の、キリスト教神学の思想に裏打ちされた思想における世界への愛と通じるものがあるように思えます。なお本章における小坂や後に紹介する成田両氏の作品制作においては、師である阿部合成の、戦争に起因する苦悩と闘争の先に独自の画境を追い求める軌跡が、様々に影響を与えているようにみえるのが興味深いところです。

 

*1,2 シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』(1947)

小坂圭二
《世界の破れを担うキリスト》
(1970)

展示室J|澤田教一:空想のゲリラ

本章では、ベトナム戦争の戦火を逃れて川を渡る一家をうつした写真《安全への逃避》(1965)で知られる青森市出身のカメラマン・澤田教一を紹介します。ベトナムでの澤田の写真は戦争終局に向けて大きく世論を動かし、自身もピュリッツァー賞はじめ数々の賞を受賞しています。そんな写真を前に含むべきは澤田の、故郷を奪う/奪われる側どちらにも共感できてしまう複雑な立ち位置です。青森における三沢基地という日本の中のアメリカを横目に、UPI通信社(アメリカ資本)の派遣でベトナムに赴く澤田。彼が戦場で目の当たりにしたのは命と故郷を奪い/奪われる人々の姿でした。澤田がそんな現地の状況を故郷と地続きに感じたであろうことは想像に難くありません。そうして今ここにある写真は、アメリカとベトナムに愛憎半ばするような、複雑な感情を滲ませた澤田が辛うじて現像し得たものと想像してみてください。どうやら澤田自身もまた、故郷と世界の危機をさまよう一人のゲリラ兵だったということができそうです。
無論危機は澤田個人に留まるものではない。例えば現在の日本においても「帰還困難区域」が内在することを考え合わせる時、写真にうつる人々は反転し、私たちの姿として再浮上する。澤田の写真は現代の故郷喪失者の姿をうつす鏡となり得る。そうした写真(=場所)を基点に、私たちは自身が拠って立つ複雑な存在構造を自覚し、厳しく問う姿勢をもたなければならないはずです。

 

‘ここは何処で この道は何処へ行くのだ
教えてくれ 応えろ
背中の銃をおろし無音の群落につめよると だが武器は軽く
おお間違いだ おれは手に三尺ばかりの棒片を摑んでいるにすぎぬ?’

-黒田喜夫「空想のゲリラ」(1955)より

 

そうしたことの一助として、澤田の写真に山形県寒河江に生まれた「飢餓の詩人」黒田喜夫(1926-84)の詩「空想のゲリラ」の世界を幻視することにしましょう。登場するのは前線からの帰還兵。その父祖は土地をもたない(おそらく小作農的な)人々。兵士は故郷の村へ帰ろうとしますが、村は彼の存在を拒絶し、村に続く道は兵士の眼前から消えていきます。非在の村落共同体。ベトナム戦争。帰還困難区域。そこでは絶えず何かが結ばれながら断ち切られ、その不断の運動に拮抗し得る想像力の訪れが待たれているように思えます。そこで携えるべき獲物は銃でもカメラでも、たとえ棒片だったとしても問題ではありません。問題は私たちがそこに何を込めるかです。

展示室K|成田亨:彫刻と怪獣の間で

‘真の芸術って何だろう?おそらく無償の行為だろう?私は、そう思っています。映画をつくったり、デザイナーと云われる人種は、芸術家ではなくなりそうです。世の中の変化と要求に、作家の方がピントを合わせて、努力は、自己探求ではなく、環境の変化への目移りだ、と云う事になりそうです。パイオニヤは薄幸の中にこの世を去り、そのパイオニヤの開いた道を、手際よく頂いて、我が世の春を謳うのがデザイナーと云う人種かも知れません。(中略)私はデザイナーです。これは彫刻家のアルバイトと、割り切れるものでもありません。新しい形を創ろうとしている自分は何だろう?(中略)私は彫刻家なのだろうか?或いはデザイナーなのだろうか?その両方だろうか?そのどちらでもないのだろうか?’ (*1)

 

青森高校在学中、阿部合成に学び、詩人山岸外史から薫陶を受けた成田亨。合成に「君は抒情詩人だ。浪漫派だ。」と賞され、「作為に満ちたエモーションのない絵は一喝された。」という成田は、晩年まで「初発的感情」という創作動機の重要性を繰り返し述べていました。少年期に戦争記録画を見て衝撃を受け、戦後の混乱期に多感な青年期を過ごし、高度成長期に入ると同時に映画、そしてテレビの仕事を手がけ、バブル期に自身の彫刻の集大成とも言える《鬼のモニュメント》(1991)を京都府大江町に完成させた成田は、ある意味で戦後社会の動向に沿いつつ創作活動を続けた作家と言ってよいでしょう。今回展示している《翼を持った人類の化石》(1971)は科学技術の発展や経済至上主義によって人間性が喪失していくことへの危機意識が表現された作品です。さらに、自らがデザインしたウルトラマンや怪獣が消費の対象という「商品」になってしまったことで精神的に疲弊した成田は「悲劇的なもの」へと傾倒し、晩年には「僕の描きたい絵のテーマは〈絶望〉です」(*2)と述べるようになっていきました。

怪獣デザインについても成田は、「怪獣が芸術ではないというのは、内容的に芸術的であるかないかという問題じゃなくて、やっぱり芸術の分類の形式から、そうなっているんじゃないですか。」(*3)と述べていますが、それはサブカルチャーが「傍流」であるという集合的無意識を反映したものと言えるのではないでしょうか。そうした一般的な価値観と、自身の表現との間で終生苦悩したのが成田亨という芸術家でした。それを成田個人の問題と捉えるのではなく、広く戦後日本の文化史/社会史の中に位置づけ、考えてみること。社会の閉塞感が再び強まりをみせる今、成田亨の歩んだ人生と残された作品から考えるべき点は多いように思います。

 

*1 成田亨「彫刻と怪獣との間」『成田亨 彫刻・映画美術個展』リーフレット、1968年
*2 成田亨『特撮と怪獣』フィルムアート社、1995年、p.256
*3 前掲書『特撮と怪獣』 p.251

成田亨
《にせウルトラマン》
(1966)
©narita/TPC

展示室I-H|工藤哲巳:わたしたちの肖像

本章では今年没後30年となる五所川原や弘前ゆかりの芸術家・工藤哲巳について、初期から渡仏後のヨーロッパの人間中心主義を批判する「あなたの肖像」や環境汚染、エコロジーを主題とした作品群、晩年の郷土に根ざした作品までを5つのパートに分け、2つの展示室を用いて紹介します。フランスの美術評論家でアンフォルメル運動の推進者であったM.タピエに激賞され、1950~60年代初頭における日常や社会全体の中で芸術を捉えなおす動向の中でも一際急進的な存在だった工藤は「反芸術」(by東野芳明)の旗手として、その名を知られるようになります。芸術の占める領域を原子物理学や集合論を手がかりに拡張することから始まった彼の仕事は、その初期から、従来の芸術を離れて人間存在や文明観を省みるような余地を孕んでいました。そうして展開された人間と自然、電子回路や放射能をも含めた技術との共生関係をどこまでも現実に根ざした形で主張する作品は、ウイルス等をも含めた「人間ならざるもの(ノンヒューマン)」との共存を主題とするエコロジー論の潮流の下、「人新世(アントロポセン/Anthropocene)」(*1)の時代とも言われる今日において、その意義をいよいよ強めていると言えます。工藤の作品における菌類状にドロドロと溶けあう身体と電子回路と自然。この現実において酸性物質その他を含む雨を待ち、ウイルスにまみれた空気を吸い、マイクロプラスチックを取り込み生きる私たち。工藤の作品世界は、今年その位相を完全に反転させ、現実そのものとなりました。ならば私たちに課せられた課題は、工藤の作品を軸にこの現実を再反転させ、いかなる未来を拓けるかを検討することだと言えます(*2)。その意味で工藤の作品は、私たちが技術と自然のもつれた環の中から、他者と共にこの世界を生き延びるためのエコロジカルな倫理と形式、すなわち「あなた」に留まらない、この世界に生きる全てのものを包摂した「わたしたち」の肖像を示してくれているかのようです。生きてるだけで丸もうけ。嗚呼、貧しくも荘厳なれ、私たちの灯台よ!

 

*1 人間活動が地球規模での環境変動に影響を与える地質年代を示す語。オゾン層破壊の研究者として1995年にノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンにより初めて名づけられ、今日のエコロジー論の主要な基点の一つとなる。なお「人新世」の始まりは1950年代と考えられているところに工藤哲巳の制作と軌を一にする部分を見出すことができそうな点が興味深い。
*2 本展が工藤哲巳の命日の月である11月に始まり、誕生日である2月23日に会期終了することは偶然ではないかもしれない。

工藤哲巳
《あなたの肖像 '67》
(1967)
©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2020 E3983

工藤哲巳
《「脱皮」の記念品・郷愁病用・あなたの居間に》
(1968-69)
©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2020 E3983

工藤哲巳
《電子回路の中における放射能による養殖》
(1970)
©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2020 E3983

工藤哲巳
《危機の中の芸術家の肖像》
(1978)
©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2020 E3983

展示室M|竹浪比呂央:鍾馗百図

コロナ禍で戦後はじめて中止となった2020年の青森ねぶた祭。大型ねぶたが制作できなくなったねぶた師の危機に対し竹浪は、創造のエネルギーを、古来より魔除け、疫病除けの効験があるとされ、ねぶたのモチーフとしても馴染み深い「鍾馗」の表現に転化させていきます。疫病退散を祈るかのように5月下旬より9月初旬にかけて1日1作がインスタグラムで発表され、最終的に100枚の多様な鍾馗像が生み出されました。いずれも葛飾北斎や河鍋暁斎、月岡芳年など古典の「本歌取(ほんかとり)」で作画された鍾馗像であり、伝統性や伝承性を強く内包した現代の表現となっています。六曲一双の貼交屏風として完成した本作を、感染症の危機を乗り越え、その終息を願うため、今回特別公開いたします。

展示室P-Q|多田友充:AMF (集団的悪についての省察→I² USK 犯罪SD 烏骨鶏Z、OUT of 眼中)

青森県立美術館の支援団体「青森県立美術館サポートシップ倶楽部」との共催により、画家・多田友充の個展を開催します。多田友充は、絵具・スプレー・墨といった多様な素材に反応する身体感覚や「集団的悪」に抗する自由な精神の探求に導かれて、人間の内奥に広がる豊かで透明な時空を、洗練された色彩とエネルギーに満ちた線描によって表現してきたアーティストです。多田が青森・弘前に滞在していた約8年の歳月の中で生み出された絵画や新作のドローイング等を展示いたします。

多田友充
《あかねぞら》
(2012)

多田友充
《ぜんりょうなるものはそうぞうしない》
(2014)
撮影:上野則宏

通年展示 展示室F,G|奈良美智:30年間のあゆみ 1989-2019

国内外で活躍する青森県出身の美術作家・奈良美智は、挑むような目つきの女の子の絵や、ユーモラスでありながらどこか哀しげな犬の立体作品などで、これまで若い世代を中心に、多くの人の心をとらえてきました。
青森県立美術館では、開館前の1998年から奈良美智作品の収集を始め、現在、その数は170点を超えます。
2020年3月からは、絵画やドローイング、ブロンズなど、作家からの寄託作品24点があらたに加わりました。その多くは、北海道白老町にある集落、飛生(とびう)での滞在と同地のコミュニティとの交わりから生まれた近年の作品です。
当館収蔵の初期作品から新規に寄託された近作まで、奈良美智の実り豊かな創造の歩みを展観します。

通年展示 アレコホール|マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の舞台背景画

青森県立美術館の中心には、縦・横21m、高さ19m、四層吹き抜けの大空間が設けられています。アレコホールと呼ばれるこの大きなホールには、20世紀を代表する画家、マルク・シャガール(1887-1985)によるバレエ「アレコ」の背景画が展示されています。青森県は1994年に、全4作品から成るバレエ「アレコ」の舞台背景画中、第1幕、第2幕、第4幕を収集しました。
これらの背景画は、帝政ロシア(現ベラルーシ)のユダヤ人の家庭に生まれたシャガールが、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れるため亡命していたアメリカで「バレエ・シアター(現アメリカン・バレエ・シアター)」の依頼で制作したものです。大画面の中に「色彩の魔術師」と呼ばれるシャガールの本領が遺憾無く発揮された舞台美術の傑作です。
残る第3幕の背景画《ある夏の午後の麦畑》は、アメリカのフィラデルフィア美術館に収蔵され、長らく同館の西側エントランスに展示されていましたが、このたび同館の改修工事に伴い、4年間の長期借用が認められることになりました。青森県立美術館での「アレコ」背景画全4作品の展示は、2006年の開館記念で開催された「シャガール 『アレコ』とアメリカ亡命時代」展以来です。背景画全4作品が揃ったこの貴重な機会に、あらためてシャガールの舞台美術作品の魅力をお楽しみください。

 

★フィラデルフィア美術館所蔵の第3幕は、長期の借用となるため、函館税関からアレコホールを保税展示場とする許可をいただいて展示しています。
展示期間:2017年4月25日 – 2021年3月頃(予定)
アレコホールへのご入場には、コレクション展もしくは企画展の入場チケットが必要です。

関連企画

担当学芸員によるギャラリートーク

展示解説を美術館youtubeチャンネル上で公開します。

講師:奥脇嵩大(青森県立美術館学芸員)

関連ファイル