平成19年度 青森県立美術館常設展IV

2008年1月1日(火) ━ 4月13日(日)

コレクション展 終了
SHARE

平成19年度 青森県立美術館常設展IV

展示のみどころ

新年元旦から始まる常設展の新たな特集テーマは、「近代版画の発展と青森」。棟方志功や関野凖一郎など、優れた版画家を輩出し、青森県は今日でも版画制作が盛んな土地です。日本の近代版画の発展の中で、青森の偉大な版画家たちが果たした重要な役割を浮き彫りにするこのコーナーでは、今純三から関野凖一郎へと受け継がれた銅版画の流れや佐藤米次郎が中心となった数々の版画誌の歩みなどを展観します。
また、小企画として開催されるのが今井俊満展。今井俊満は、日本の戦後の抽象絵画の流れを語る上では欠かせない画家です。当館は、同画家から生前に100点を超える作品の寄贈を受けました。このコレクションから今回は、長さ20メートルにもおよぶキャンバス画『武蔵野図』など、今井俊満のエネルギッシュな創作活動の一端をご紹介します。
さらに、当館のコレクションと建築空間の新たな魅力を引き出すための継続的プロジェクト「×A (バイエー) プロジェクト」第3弾では、当館に寄託されている郷土出身の写真家・小島一郎の作品に、六ヶ所村で戦後の開拓時代に撮られた貴重な写真をかけ合わせます。六ヶ所村開拓写真は、開拓民としてその地で暮らしていた一人のアマチュアカメラマン・川村勇によって撮影されたものです。厳寒の下北や津軽などをくまなく歩き、雪原の風景や農村の人々の暮らしを撮り続けた小島一郎。被写体となった土地と真摯に向き合った二人の写真から、写真家の個性とは何か、また写真における場所の力とは何かを考えます。

開催概要

会期

2008年1月1日 (火・祝) – 4月13日 (日)

展示内容

特集:近代版画の発展と青森

棟方志功展示室:棟方志功 | 芸業の展開
展示室O:青森「創作版画誌」時代
展示室P,Q:日本近代版画特集1 銅版画と青森を結ぶ糸~今純三と関野凖一郎~
展示室M:日本近代版画特集2 屏風仕立て
棟方志功展示室:棟方志功 | 芸業の展開
油絵画家を目指して上京した棟方志功は、川上澄生の版画「初夏の風」に出会ったことがきっかけで板画を始めるようになりました。棟方が板画を始めた頃の作品は、当然のごとく川上澄生の作品と似たものでした。
しかし、これは棟方にとっては版画を学んでいた時期であり、これらの作品を通じて下絵の描き方、板の彫り方、摺りの方法などを学んでいたのでしょう。この時期を過ぎてからは棟方独自の板画が展開されます。
一方、板画を本業としてからも、自ら倭絵 (やまとえ) と称している肉筆作品も描いており、晩年には棟方美人画と言われるような独自の世界を確立します。
また、棟方は生来好きだった油絵も生涯描き続けていましたし、折に触れて雄渾な書作品も制作しています。
今回は、初期棟方板画をはじめ、幅広い棟方の芸業をご鑑賞ください。
(展示構成:棟方志功記念館 / 展示作品数:13点)

 

展示室O:青森「創作版画誌」時代
「版画雑誌流行時代」といわれた1930年代、その波は本州最北端の地、青森にも押し寄せました。
1930 (昭和5) 年の春、青森中学校(現・青森高等学校)に通う3人の若者 (柿崎卓二、佐藤米次郎、根市良三) により、一冊の雑誌が創刊されます。各人が制作した版画が挿入された『緑樹夢』 (りょくじゅむ) という美しいタイトルを持つこの雑誌は、青森県初の創作版画誌として美術を愛好する同世代の若者達の支持を集めるところとなり、その後、次々に新しい版画誌が刊行されていくことになりました。
これら版画誌の製作には佐藤米次郎、関野凖一郎など戦後、青森県を代表する版画家として活躍することになる若者が中心となっていましたが、その他にも多くの若者が参加し、また、今純三、下澤木鉢郎、棟方志功といった先輩美術家や中央で活躍する版画家など当時、版画制作に関わっていた多彩な美術家の作品が掲載されていました。さらに全国各地で同様の活動をおこなっていた愛好家の作品が掲載されているのも大きな特徴です。当時、版画誌は誰もが参加できる展覧会場としての役割を担い、広く開かれた交流の場となっていました。
こうした活動は明治後半期に起こった、自画・自刻・自摺を旨とする「創作版画運動」が昭和初期には全国に浸透していたことを示す証であり、これら版画誌の流行によって、さらに創作版画の裾野は広がっていったのです。
ここでは青森県で戦前に発行された代表的な創作版画誌を紹介し、昭和初期、青森の若者達を熱中させた創作版画誌というメディアを振り返ります。
(展示作品数:創作版画誌 8点 / 個人版画誌 3点)

 

展示室P,Q:日本近代版画特集1 | 銅版画と青森を結ぶ糸~今純三と関野凖一郎~
銅版画に取り組んだ作家たちは、それぞれ工夫を凝らしてこの西洋伝来の技法に取り組みます。その探求は第二次世界大戦後、日本の作家による銅版画が数多くの国際展で受賞し、豊かな実を結ぶことになります。今回の展示では、銅版画と青森とのこれまであまり知られていない結びつきをご紹介します。
キーパーソンは青森出身の二人の作家、今純三と関野凖一郎です。
関野凖一郎は、1950年代の前半、東京の自宅で銅版画の研究会を開催していました。駒井哲郎、浜田知明、浜口陽三など、1950年代以降に国際的に活躍する作家たちがここを訪れています。銅版やインクの材料、紙まで自前で調達し、道具を工夫して版を作り、プレス機まで自作したりしました。戦後の物不足で画材の入手もままならないなか、銅版画の魅力に惹かれた多彩な人物がここに集い、やがてそれぞれの道を歩んで行きます。
関野がこのような研究会を主催できたのは、かつて青森で今純三から銅版画を学んでいたおかげです。東京で新進の画家として活躍していた純三は、1923年の関東大震災を機に青森に戻り、銅版画や石版画を中心に制作に取り組みました。関野をはじめ、棟方志功など美術に魅入られた青森の若者たちが純三のアトリエを訪れています。
戦前の青森での純三と関野の作品、そして戦後、関野の銅版画研究会に集った日本を代表する作家たちの作品を中心にご紹介します。
(展示作品数:[今純三] 6点 / [関野凖一郎] 6点 / [駒井哲郎] 3点 / [長谷川潔] 1点 / [浜口陽三] 11点 / [浜田知明] 6点)

 

展示室M:日本近代版画特集2 | 屏風仕立て
版画は額装して展示するのが一般的ですが、ここではちょっとかわった展示方法をおみせします。日本画の伝統的な表装方法の一つである、屏風仕立てにした版画作品です。
屏風は本来、日本の生活の中にあった家具で、空間を仕切るために用いられたものです。屏風装された作品では、額装された作品を観る場合よりも作品とまわりの空間との関係が強く感じられ、独特の存在感を醸し出します。
関野凖一郎の『アメリカインディアン』では、大きな画面全体を埋め尽くす、うねるような紋様とダイナミックな動きを感じさせるモチーフが、二曲一隻の屏風装によって観るものを取り込むような空間性を得て、一層迫力を増しています。
髙木志朗の『作品貼交屏風』は、4点の作品を四曲一隻の屏風に仕立てたものです。4点はそれぞれ独立した作品ですが、抽象的な絵柄の4つの作品が一つの屏風に取り入れられることで、新しい美しさが生まれています。参考のために、同じ4点の作品を別々に額装したものも展示していますので、見比べてみてください。
(展示作品数:6点)

その他常設展示

展示室F:奈良美智インスタレーション
青森県弘前市出身の奈良美智 (1959 – ) は、弘前市の高校を卒業後、東京と名古屋の大学で本格的に美術を学び、1980年代半ばから絵画や立体作品、ドローイングなど、精力的に発表を続けてきました。青森県立美術館は、1997年から奈良美智作品の収集をはじめ、現在その数は150点を越えます。
《Hula Hula Garden》と《ニュー・ソウルハウス》という2点のインスタレーション(空間設置作品)を中心に、奈良美智の世界をご紹介します。

 

展示室G:寺山修司の映像世界
寺山修司 (1935 – 1983) は東京を活動の拠点としつつも、故郷青森の言葉や風土を意識した作品を数多く手がけています。
偽の自伝映画「田園に死す」 (1974年、ATG) は、恐山と新宿のイメージが交錯する物語ですが、青森の家が壊れると新宿東口があらわれる不思議なラストシーンに象徴されるように、現実と虚構、都市と地方、現在と過去、内面と外面、創造と破壊といった対立概念をあわせもつ「両義性の魅力」が寺山作品の大きな特徴と言えます。
今年度の常設展示では、そうした寺山の本質を端的に示す映像作品を中心に展示を構成します。

 

展示室H:×Aプロジェクト no. 3 | 六ヶ所村開拓写真×小島一郎
大正13年、青森市大町 (現:本町) に、県内でも有数の写真材料商「小島写真機店」を営む父平八郎と母たかの長男として生まれた小島一郎は、昭和30年代、青森県内をくまなく歩き、津軽の貧しい農村や厳冬の下北の風景などを撮り続けました。青森県立美術館は、平成17年に、膨大な数に及ぶ小島の写真や資料を、遺族から寄託されています。
今回のプロジェクトでは、この小島の寄託作品の一部をご紹介するとともに、庄内酪農農業協同組合 (現:らくのう青森農業協同組合) が保管する、六ヶ所村の開拓時代の写真を展示します。
「庄内開拓団」は、戦後の食糧難を克服するために打ち出された国策を受け、昭和22年、山形県庄内郷から青森県六ヶ所村芋ヶ崎地区に入植した人々です。彼らは、幕舎に暮らしながら、家畜や器具も持たないまま、鍬一本で荒涼たる原野を切り開いていきました。自らの手で開墾した地に根づいていく庄内開拓村民のたくましい暮らしぶりを、一人のアマチュアカメラマン、川村勇が写真に残していました。
厳寒の大地をひたすら歩き、そこで得た身体感覚を、独特の焼きこみによる造形で力強く表現した小島一郎、自らも開拓民としてその地に住まい、内側からのまなざしでシャッターを切り続けた川村勇。それぞれの方法で、被写体となった土地と真摯に向き合った二人の写真から、写真家の個性と写真における場所の力について考えます。
(協力:小島弘子、川村勇、庄内酪農農業協同組合の皆さん、野坂千之助 / 展示作品数:[六ヶ所村開拓写真、資料等] 約40点 [小島一郎写真] 42点)

※「×A (バイエー) プロジェクト」は、青森県立美術館のコレクションと建築空間の新たな魅力を引き出すための継続的プロジェクトです。 国内外のアーティストの作品やさまざまな創造の分野で活躍する人たちの発想など、青森県立美術館のコレクションあるいは建築空間に、新しい可能性を切り開く要素をかけ (×) 合わせることで、その特性と普遍性について考えます。

 

展示室I:成田亨の怪獣デザイン | その「構造」と「意外性」
成田亨 (なりた・とおる 1929 – 2002) が手がけた「ウルトラ」シリーズの怪獣デザイン原画を紹介します。
彫刻家としての感性、芸術家としての資質が反映されたそのデザインは、放映後40年がたつ現在もなお輝きを失っていません。
成田は、青森高等学校在学中に阿部合成へ師事、武蔵野美術大学に進学の後は彫刻を専攻しました。卒業後、新制作展を舞台に活躍する彫刻家として活動する一方、映画「ゴジラ」 (1954) を皮切りに、映画美術の世界でも活躍をはじめました。「ウルトラ」シリーズにおける怪獣デザインの特徴は、自然や動物、過去の文化遺産を引用しつつ、誰も見たことのない形の「意外性」を出していくこと。怪獣イコール化け物というそれまでのイメージをくつがえし、新鮮でありながらもどこか懐かしく愛嬌のあるデザインが次々に生み出されていったのです。
そして、そのデザイン画は彫刻家としての高い資質に裏付けられた力強い「構造」を持つ、1点の独立した絵画としてもきわめて創造性の高いものと言えましょう。
(展示作品数:55点)

 

展示室J, K:今井俊満 | ゆたかなる混沌への序章
1957年、フランスに渡っていた今井俊満 (いまい・としみつ 1928 – 2002)は、アンフォルメル運動の主唱者ミシェル・タピエらとともに一時帰国し、アンフォルメル旋風を巻き起こしました。それは、戦後の日本美術の動向に大きな影響を与えるとともに、日本の若い世代に強烈な刺激を与えました。自らの活動も、アンフォルメルの旗手として、その仕事は高く評価されたものの、「自分をコピーし続ける」ことを否定し、ひとつところに安住することを潔しとせず、常に新たな表現に挑戦し続けました。
アンフォルメルの前衛的な非具象の世界から一転し、『花鳥風月』の安土桃山時代を思わせる豪壮華麗な世界、『飛花落葉』のいぶし銀の世界へ。さらに変転して、戦争をテーマにしたヒロシマ・シリーズ。そして、癌という病を押して、渋谷109に出入りし、コギャルの持っているエネルギーを「ゆたかな混沌」として肯定的に捉え、残り少ない命を自覚しつつ、猛然と絵筆を振るったコギャル・シリーズ。
死の直前、作家本人から寄贈を受けたこれら100点を超える作品及びこれまで収集してきた作品の中から、今回はアンフォルメルなど初期作品の数々と、20メートルにおよぶキャンバス画《武蔵野図》 (1987年) を紹介します。
(展示作品数:11点)

 

展示室L:近藤悠三 | 陶業の展開
近藤悠三 (こんどう・ゆうぞう 1902 – 1985) は京都に生まれ、1977年、染付の技法で無形重要文化財保持者 (人間国宝) の認定を受け、日本の陶芸界に大きな足跡を残しました。その作風は豪放、雄勁で、自然の草木果実や風景などのモチーフを絵画的な筆致と濃淡の諧調によって表現することを得意とし、まさに器胎の素地をキャンバスにダイナミックな画筆を振るうがごとくです。
生前、近藤悠三と親交があった八戸市出身の故中村正信氏から、平成8年度に94件 (150点) に及ぶ寄贈を受けました。作家から一番手を託され、散逸させることなく、作家の遺志を受け、しかるべきところに納めたいと願ってのことであり、故郷の県立美術館はかくして近藤悠三の一大コレクションを有することとなりました。
その中村コレクションの中から、直径70cmを超える大皿「梅染附金彩大皿」をはじめ、花瓶、壺など主要な作品を3期に分け、1月は染付に金彩を施した豪壮華麗な作品、2月は雄渾な山水をテーマにした作品、3~4月は1965年から重要無形文化財(人間国宝)に認定された1977年までの日本伝統工芸展出品作品を紹介します。

近藤悠三作品リスト
作品名(制作年/材質・技法/I期,II期,III期/出品歴)

 

1.山噴煙染附金彩壺(1972/磁器・染付、金彩/I期,II期,III期/第19回日本伝統工芸展)
2.山染附金彩壷(1973/磁器・染付、金彩/I期,III期/第20回日本伝統工芸展)
3.梅染附金彩壷(1975/磁器・染付、金彩/I期,III期/第22回日本伝統工芸展)
4.葡萄染附金彩壷(1978/磁器・染付、金彩/I期)
5.富士金彩染附赤絵壷(1980/磁器・染付、赤地金彩/I期)
6.山染附金彩香炉(1984/磁器・染付、金彩/I期)
7.山染附金彩角皿(磁器・染付、金彩/I期,II期)
8.松染附金彩皿(1980/磁器・染付、金彩/I期)
9.柘榴染附金彩皿(磁器・染付、金彩/I期)
10.梅染附金彩瓢瓶(1965頃/磁器・染付、金彩/I期)
11.梅赤地金彩瓢瓶(1965頃/磁器・染付、金彩/I期)
12.薊金彩湯呑(磁器・金彩/I期)
13.山金彩湯呑(磁器・金彩/I期,II期)
14.梅金彩ぐゐ呑(磁器・金彩/I期)
15.赤地金彩花瓶(1969/磁器・赤地金彩/I期)
16.山水染附壷(1956/磁器・染付/II期第3回日本伝統工芸展工芸会賞)
17.山染附花瓶(浅間噴煙)(1963/磁器・染付/II期)
18.山釉裏紅壷(四国屋島五剣山)(1966/磁器・釉裏紅/II期第13回日本伝統工芸展)
19.山海染附面取大鉢(1970/磁器・染付/II期第17回日本伝統工芸展)
20.山染附壷(1971/磁器・染付/II期,III期/第18回日本伝統工芸展)
21.山噴煙染附角皿(1971/磁器・染付/II期)
22.山寒山詩染附皿(磁器・染付/II期)
23.山染附水指(磁器・染付/II期)
24.茶碗 山呉須(半磁器・染付/II期)
25.山染附湯呑(磁器・染付/II期)
26.薊染附大皿(1965/磁器・染付/III期/第12回日本伝統工芸展)
27.ぶどう染附大皿(1966/磁器・染付/III期/第13回日本伝統工芸展)
28.薊染附花瓶(1967/磁器・染付/III期/第14回日本伝統工芸展)
29.竹の子染附面取壷(1968/磁器・染付/III期/第15回日本伝統工芸展)
30.竹の子染附花瓶(1969/磁器・染付/III期/第16回日本伝統工芸展)
31.梅染附面取壷(1974/磁器・染付/III期/第21回日本伝統工芸展)
32.柘榴染附釉裏紅壷(1976/磁器・釉裏紅/III期/第23回日本伝統工芸展)
33.松染附花瓶(1977/磁器・染付/III期/第24回日本伝統工芸展)
34.梅染附金彩大皿(1976/磁器・染付、金彩/I期,II期,III期)
35.盃 五趣(五客組)(1965頃/磁器・染付、金彩/I期,II期,III期)

展示期間
I期:1月1日 – 1月31日 / II期:2月1日 – 2月28日 / III期:3月1日 – 4月13日
ページトップ

展示室N:特別史跡 三内丸山遺跡出土の重要文化財

縄文の表現
特別史跡三内丸山遺跡は我が国を代表する縄文時代の拠点的な集落跡です。縄文時代前期中頃から中期終末 (約5500年前 – 4000年前) にかけて長期間にわたって定住生活が営まれました。これまでの発掘調査によって、住居、墓、道路、貯蔵穴集落を構成する各種の遺構や多彩な遺物が発見され、当時の環境や集落の様子などが明らかとなりました。また、他地域との交流、交易を物語るヒスイや黒曜石の出土、DNA分析によるクリの栽培化などが明らかになるなど、数多くの発見がこれまでの縄文文化のイメージを大きく変えました。遺跡では現在も発掘調査がおこなわれており、更なる解明が進められています。
一方、土器や土偶などの出土品の数々は、美術表現としても重要な意味を持っています。当時の人間が抱いていた生命観や美意識、そして造形や表現に対する考え方など、縄文遺物が放つエネルギーは数千年の時を隔てた今もなお衰えず、私達を魅了し続けています。
青森県立美術館では国指定重要文化財の出土品の一部を展示し、三内丸山遺跡の豊かな文化の一端を紹介します。縄文の表現をさまざまな美術表現とあわせてご覧いただくことにより、人間の根源的な表現について考えていただければ幸いです。

マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の背景画

青森県は1994年に、20世紀を代表する画家、マルク・シャガール (1887 – 1985) が制作した全4幕から成るバレエ「アレコ」の舞台背景画中、第1幕、第2幕、第4幕を収集しました。
ユダヤ人のシャガールは1941年、ナチの迫害から逃れるためにアメリカへ亡命します。バレエ「アレコ」の舞台美術は、画家がこの新大陸の地で手がけた初の大仕事でした。
1942年に初演をむかえたバレエ「アレコ」の振付を担当したのは、ロシア人ダンサーで、バレエ・リュスで活躍したレオニード・マシーン。音楽には、ピョートル・チャイコフスキーによるイ短調ピアノ三重奏曲をオーケストラ用に編曲したものが用いられ、ストーリーはアレクサンドル・プーシキンの叙情詩『ジプシー』を原作としていました。
シャガールは祖国ロシアの文化の粋を結集したこの企画に夢中になり、たくましい想像力と類いまれな色彩感覚によって、魅力あふれる舞台に仕上げたのです。

・『アレコ』第1幕 《月光のアレコとゼンフィラ》(1942年/綿布・テンペラ/887.8×1472.5cm)
・『アレコ』第2幕 《カーニヴァル》(1942年/綿布・テンペラ/883.5×1452.0cm)
・『アレコ』第4幕 《サンクトペテルブルクの幻想》(1942年/綿布・テンペラ/891.5×1472.5cm)