コレクション展2023-3
今回のコレクション展では、青森県立郷土館と連携したサテライト展示「生誕130年:今純三 ―純三が描いた戦前の青森―」を中心に、没後40年の節目の年となる寺山修司、成田亨の怪獣デザイン原画等を展示いたします。さらに企画展「奈良美智:The Beginning Place ここから」の関連展示として、奈良美智と棟方志功の作品をあわせて展示するユニークな試みも行います。青森ゆかりの作家の多彩な個性をお楽しみください。
開催概要
会期
2023年9月30日(土)~2024年1月28日(日)
休館日
2023年10月10日(火)、10月23日(月)、11月13日(月)、11月27日(月)、12月11日(月)、12月25日(月)~2024年1月1日(月)、1月9日(火)、1月22日(月)
開館時間
9:30-17:00(入館は16:30まで)
※あおもり犬連絡通路の入場可能時間は、9:30-16:30(※17:00に通路入口を施錠します) ※10月21日(土)、11月18日(土)、12月9日(土)、1月20日(土)はナイトミュージアム開催につき、20:00まで開館します(入館は19:30まで)が、17:00以降、≪あおもり犬≫は展示室内からの観覧のみとなります。
会場
地下1階、地下2階展示室
観覧料
一般510円(410円)/高大生300円(240円)/小中生以下100円(80円)
展示内容
展示室F+G|奈良美智と棟方志功のあいだ
青森県出身の美術家・奈良美智は、挑むような目つきの女の子の絵や、ユーモラスでどこか哀しげな犬の立体作品などで、これまで国や世代を超えて多くの人々の心を捉えてきました。奈良は1959(昭和34)年、青森県弘前市に生まれました。奈良が誕生した年からさかのぼること50数年、やはり後に芸術家として活躍する一人の人物が青森市に生まれています。板画家の棟方志功(1903-1975)です。同じ青森という地に生を受け、美術の世界で国際的な評価を得た二人ですが、昭和生まれの奈良と明治生まれの棟方のあいだには、半世紀以上の時代の隔たりがあります。
郷土が輩出した偉大な芸術家である棟方志功という名になじみはあったはずですが、若い頃から美術にとらわれず音楽や文学など幅広い同時代の文化に関心を向けてきた奈良にとって、棟方の作品世界は近くて遠い存在だったと言えるかもしれません。
ここではそんな二人の作品をあえて並べて展示しています。共通のモチーフによる接近が際立たせる素材や表現の違いは、その背後にある時代の移り変わりまでも映し出すようです。そして、既存の価値観に縛られることのない自由闊達な二人の表現世界の中には、彼らの突出した個性を育んだ共通の土壌もうっすらと浮かび上がるのではないでしょうか。
展示室N + 棟方志功展示室|棟方志功:マイ・ボデイー・アオモリ
青森市名誉市民第一号に選ばれた棟方志功。故郷に認められたことを心から喜んだ棟方は、1969年2月に行われた名誉市民称号の授与式において、竹内俊吉知事や淡谷悠蔵代議士ら無名の頃から応援してくれた地元の人々に見守られ、目を潤ませながら称号記と名誉市民章を授かりました。
青年時代、写生を繰り返し心と体に深く刻み込んだ青森の自然は、棟方芸術の原点です。油絵や倭画で直接的に描くことはもちろん、板画ではアレンジを加えて模様のように扱いました。写生の拠点とした合浦公園や八甲田の風景は、晩年になっても、さらには海外旅行中にも描くほどでした。自然だけでなく、ねぶたや縄文といった青森の芸術も作品に豊かさをもたらしました。1950年代の板画に集中していますが、縄文土器の縄目模様やねぶたの制作技法の一種であるロウ点(ロウで施す小さな水玉模様)を思わせる点描などを人物表現や装飾表現に活かしています。
世界的に高い評価を受け多忙を極めるようになってからも青森から依頼された仕事は可能な限り引き受けるようにしていたといい、特筆すべきは1961年の青森県庁新庁舎を飾る巨大な板壁画《花矢の柵》の制作です。アイヌの祭を題材にし、「青森のほうからのいのちを、今度は南の方へぶつけてやるというような形のものにしたい」と、青森がさらに発展し日本の文化の流れが北から南へと向かうよう願いを込めたといいます。
名誉市民称号の授与にあたっての奈良岡末造市長との対談では「マイ・ボデイー・アオモリです」と語った棟方。芸術家としての自分を作り上げてくれた風物やお世話になった人々など、青森のあらゆるものへの感謝の念を込めた言葉なのでしょう。生涯強く抱き続けたその思いを、作品を通して感じていただけると幸いです。
展示室O+P+Q+M+L+J|生誕130年 今純三:純三が描いた戦前の青森
青森県弘前市出身の今純三(1893~1944)は、日本を代表する近代銅版画家の一人です。彼は、青森県の自然や民俗、風景などを題材に多くの作品を制作しました。
兄の和次郎(1888~1973)は、建築・服飾・民俗学など幅広い分野で活動した研究者で、人々のくらしや街なみについて詳しく調査・分析して、それらを図表やイラストで記録し、社会の変化を考えるという「考現学」を提唱したことで知られています。
和次郎は、青森県に関する考現学調査を純三にも依頼しました。純三は、鋭い観察眼と優れた描写力を活かした多くの調査記録を和次郎に送っており、本展で紹介する代表作『青森県画譜』や『創作版画小品集(エッチング小品集)』には、考現学の影響を色濃く見ることができます。
代々医者の家に生まれた純三は、医学の道に進むことを期待されましたが、家族の反対を押し切って画家になることを決意し、本郷洋画研究所に入り、当時最も権威のある文展(第7回)、帝展(第1回)で入選を果たします。その後、洋画家として、東京で活動を続けていましたが、1923年の関東大震災後、青森に移り住みます。
彼は、生活のために印刷の仕事をするかたわら、銅版画や石版画の研究を始めます。さらに、兄和次郎の考現学調査を手伝ううちに、その魅力に引き込まれていきました。版画技法の研究と考現学手法である写実的検証をもとに、青森県内の自然景観、人々のくらしの写実的記録画ともいえる『青森県画譜』(1933年)を制作、続けてエッチングによる「奥入瀬渓流」連作(途中、病に倒れ未完)、さらに『創作版画小品集』(1935年)制作に取り組んでいきます。
作品制作だけでなく、版画技法の研究と後進の育成にも情熱を注ぎ、彼が自ら建てた青森市合浦公園近くのアトリエには、多くの芸術を志す若者達が訪れました。
1939年に再び上京、銅版画の普及のために様々な仕事を引き受けつつ、1943年に版画の技法書『版画の新技法』(三國書房)を出版します。戦争が深まる中、心身の酷使により発病し世を去りました。
本展の中心となる『青森県画譜』と『創作版画小品集(エッチング小品集)』は、考現学の視点で戦前の青森の姿をとらえたものです。純三は『青森県画譜』終刊を迎えた「作者の言葉」において、制作の動機を次のように語っています。
―郷土の自然と人に就いて其の真相を描写して一つの纏まった画譜としたならば何等か世を、人を、益するものがあるのでは無かろうかという考えからその実現を企てたのであった。―
青森の自然、歴史、今現在の日常、人々のくらしを描き残すことが「何かしら社会的に課せられた責務」という強い思いから『青森県画譜』は制作されたのです。
純三が描いた戦前の青森の姿は、歴史・民俗学的にも貴重な記録であるとともに、版画家としての優れた技術による高い芸術性が現代の私たちを惹きつけるのです。
展示室I|成田亨:彫刻と怪獣の間で
‘真の芸術って何だろう?おそらく無償の行為だろう?私は、そう思っています。映画をつくったり、デザイナーと云われる人種は、芸術家ではなくなりそうです。世の中の変化と要求に、作家の方がピントを合わせて、努力は、自己探求ではなく、環境の変化への目移りだ、と云う事になりそうです。パイオニヤは薄幸の中にこの世を去り、そのパイオニヤの開いた道を、手際よく頂いて、我が世の春を謳うのがデザイナーと云う人種かも知れません。(中略)私はデザイナーです。これは彫刻家のアルバイトと、割り切れるものでもありません。新しい形を創ろうとしている自分は何だろう?(中略)私は彫刻家なのだろうか?或いはデザイナーなのだろうか?その両方だろうか?そのどちらでもないのだろうか?’ (*1)
青森高校在学中、阿部合成に学び、詩人山岸外史から薫陶を受けた成田亨。合成に「君は抒情詩人だ。浪漫派だ。」と賞され、「作為に満ちたエモーションのない絵は一喝された。」という成田は、晩年まで「初発的感情」という創作動機の重要性を繰り返し述べていました。少年期に戦争記録画を見て衝撃を受け、戦後の混乱期に多感な青年期を過ごし、高度成長期に入ると同時に映画、そしてテレビの仕事を手がけ、バブル期に自身の彫刻の集大成とも言える《鬼のモニュメント》(1991年)を京都府大江町に完成させた成田は、ある意味で戦後社会の動向に沿いつつ創作活動を続けた作家と言ってよいでしょう。さらに、自らがデザインしたウルトラマンや怪獣が消費の対象という「商品」になってしまったことで精神的に疲弊した成田は「悲劇的なもの」へと傾倒し、晩年には「僕の描きたい絵のテーマは〈絶望〉です」(*2)と述べるようになっていきました。
怪獣デザインについても成田は、「怪獣が芸術ではないというのは、内容的に芸術的であるかないかという問題じゃなくて、やっぱり芸術の分類の形式から、そうなっているんじゃないですか。」(*3)と述べていますが、それはサブカルチャーが「傍流」であるという集合的無意識を反映したものと言えるのではないでしょうか。そうした一般的な価値観と、自身の表現との間で終生苦悩したのが成田亨という芸術家でした。それを成田個人の問題と捉えるのではなく、広く戦後日本の文化史/社会史の中に位置づけ、考えてみること。社会の閉塞感が再び強まりをみせる今、成田亨の歩んだ人生と残された作品から考えるべき点は多いように思います。
*1 成田亨「彫刻と怪獣との間」『成田亨 彫刻・映画美術個展』リーフレット、1968年
*2 成田亨『特撮と怪獣』フィルムアート社、1995年、p.256
*3 前掲書『特撮と怪獣』 p.251
展示室H|没後40年 寺山修司:ジャパン・アヴァンギャルド
寺山修司 (弘前市出身/1935-83) は県立青森高等学校時代、「俳句」によって表現活動をはじめ、早稲田大学進学後は「短歌」の世界へ、その後凄まじいスピードでラジオ、テレビ、映画、そして競馬やスポーツ評論の世界を駆け抜けていったマルチアーティストです。1967年には「演劇実験室◎天井棧敷」を立ち上げ、人々の旧来的な価値観に揺さぶりをかけ、さらには多岐にわたる活動の中、美術、デザイン、音楽といった様々なジャンルで新しい才能を発見し、育てていったことも特筆すべき業績の一つと言えましょう。
1960~70年代はいわゆるアングラ文化が全盛の時代でした。高度成長によって近代化が急速に進む一方、社会的な構造と人間の精神との間に様々な歪みが生じ、そうした近代資本主義社会の矛盾を告発するかのように権力や体制を批判、従来の価値観を否定していく活動が盛んとなっていったのです。特に寺山は大衆の興味や関心をひきつける術に特異な才能を発揮しました。演劇や実験映画ではそれが顕著で、演劇、映画のあらゆる「約束事」が否定され、感情や欲望を刺激するイメージで覆い尽くされた寺山の斬新な作品は多くの人々を虜にしていきました。
このコーナーでは、寺山が主宰したアングラ文化の象徴とも言うべき「演劇実験室◎天井棧敷」のポスター18点を紹介いたします。
通年展示 アレコホール| マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の舞台背景画
青森県立美術館の中心には、縦・横21m、高さ19m、四層吹き抜けの大空間が設けられています。アレコホールと呼ばれるこの大きなホールには、20世紀を代表する画家、マルク・シャガール(1887-1985)によるバレエ「アレコ」の背景画が展示されています。青森県は1994年に、全4作品から成るバレエ「アレコ」の舞台背景画中、第1幕、第2幕、第4幕を収集しました。 これらの背景画は、帝政ロシア(現ベラルーシ)のユダヤ人の家庭に生まれたシャガールが、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れるため亡命していたアメリカで「バレエ・シアター(現アメリカン・バレエ・シアター)」の依頼で制作したものです。大画面の中に「色彩の魔術師」と呼ばれるシャガールの本領が遺憾無く発揮された舞台美術の傑作です。 残る第3幕の背景画《ある夏の午後の麦畑》は、アメリカのフィラデルフィア美術館に収蔵され、長らく同館の西側エントランスに展示されていましたが、このたび同館の改修工事に伴い、4年間の長期借用が認められることになりました。青森県立美術館での「アレコ」背景画全4作品の展示は、2006年の開館記念で開催された「シャガール 『アレコ』とアメリカ亡命時代」展以来です。背景画全4作品が揃ったこの貴重な機会に、あらためてシャガールの舞台美術作品の魅力をお楽しみください。
★フィラデルフィア美術館所蔵の第3幕は、長期の借用となるため、函館税関からアレコホールを保税展示場とする許可をいただいて展示しています。 アレコホールへのご入場には、コレクション展もしくは企画展の入場チケットが必要です。
「アレコ特別鑑賞プログラム」上映時間はこちらをご覧ください。