コレクション展 Ⅲ

2016年10月1日(土) ━ 12月11日(日)

コレクション展 終了
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コレクション展 Ⅲ

コレクション展 Ⅲ

開催概要

会期

2016年10月1日(土) – 12月11日(日)

展示内容

澤田教一展関連企画 身捨つるほどの祖国/小島一郎・寺山修司

展示室K 小島一郎

1924(大正 13)年、青森市大町で、玩具と写真材料を扱う商店の長男として生まれた小島一郎は、青森県立商業学校(現 : 青森県立青森商業高等学校)を卒業後、出征。戦後の混乱期を経て、昭和 29 年頃から本格的に写真を始めます。
津軽平野の秋の田で一日中働く農夫たち。寒風吹きすさぶ下北の浜辺で、必死に船を引き揚げる漁師。郷土、青森に生きる人々への深い共感を、覆い焼きや複写の技法を駆使しながら、印画紙に刷り込むようにして焼きつけた写真の数々は、39歳という早すぎる死の後も、展覧会や写真雑誌で取り上げられ、近年その評価は高まっています。
現在、企画展で回顧展を開催している、カメラマン・澤田教一は高校卒業後の一時期、この小島が経営する小島写真機店で働いていました。具体的なエピソードは知られていませんが、暗室での作業をともにした2人の間には交流があり、澤田が小島の写真に取り組む姿勢に学んだことは少なくなかったと妻のサタ夫人は語っています。
小島一郎は1961(昭和36)年、フリーカメラマンとしての活躍の場を求めて東京へ移住しますが、ちょうど同じ年に、澤田もまたプロのカメラマンを目指して上京しています。その年の暮れ、UPI通信東京支局への就職が決まった澤田は、小島の自宅にその報告に訪れています。小島は澤田の就職をわが事のように喜んでいた、と妻の弘子夫人は述懐しています。
小島一郎はその後、東京での仕事に行き詰まり、青森よりさらに北の北海道の撮影に活路を見出そうとします。しかしそこでもまた撮影は難航し、この時の身体的・精神的負担により体調を崩した小島は、そのまま回復することなく、39歳の若さで急逝しました。
身を削るようにして厳寒の地の撮影に挑んだ小島一郎。銃弾が飛び交う前線での撮影を繰り返した澤田教一。今人々の心を打つ二人の写真は命という大きな代償を伴っていました。そして被写体に向かうその強烈なエネルギーは、彼らが青森という地に生を受けたことと何かしら関係がある気がしてなりません。
遺族から当館に寄託されている3,000点以上におよぶ作品と資料の中から、小島一郎の代表作をご覧いただきます。

展示室L,M,J 寺山修司

澤田教一と寺山修司は青森県立青森高等学校の第4期生として昭和29年に卒業した同級生です。澤田は写真部に、寺山は文学部と新聞部に所属して高校時代から創作活動をはじめており、後の2人の世界的活躍の原点をこの高校時代に認めることができます。特に寺山は高校時代から、京武久美と俳句雑誌『牧羊神』を主宰したり、俳句の改革運動を推進する「全国学生俳句会議」を結成するなど、精力的な活動を行っていました。
2人は同じ早稲田大学を受験。澤田は不合格となり青森にとどまる一方、寺山は合格し、教育学部国文学科(当時)へ進学。2人の人生はここで大きく分かれていきます。早熟の天才であった寺山は、弱冠22歳で処女作『われに五月を』を出版。その後、俳人、歌人、劇作家、エッセイストなど多方面で才能を発揮、1967年には「演劇実験室◎天井桟敷」を結成し、日本のアンダーグラウンドカルチャーを牽引する存在となっていきますが、その様々なイメージの中にあわられ、消えるのは故郷青森の風景と言葉、そして土俗的な力でした。
澤田展にあわせ、寺山芸術における「故郷」の存在が、東京という表現の「戦場」へどのように影響を与えたのかを探ります。

青森駅構内を走る寺山修司
(撮影:菅野喜勝 提供:テラヤマ・ワールド)

特集展示 青森の色と形 part2

展示室O,P,Q 石井康治:詩・季・彩 ― 秋を思う

青森の自然に魅せられ、その光と風が織りなす北国の四季を、彩り豊かなガラス作品にうつし取った石井康治。
1991年、今、県立美術館が建つ場所に程近い、青森市三内に工房を構え、1996年50歳で急逝するまで、この地で精力的にガラスの素材と技法について研究を重ね、「彩烈文」「環象文」「彩花文」など、青森の四季と風土にインスピレーションを受けた独自の文様を次々と生み出していきました。
「色ガラスを用いて自分のイメージを詩のような感じで作りたい。」と語っていた石井は、ドローイングやデッサンなどで自然を写生することからはじめ、工房で熱したガラスを中空の棹に巻き取り、息を吹き込んで膨らませ、そこに選び抜いた色ガラスを溶着させ、イメージしたかたちを作りあげていったのです。繊細な感性と優れた造形感覚、そして確かな手の技に裏打ちされつつ、自然との対話、ガラスという素材との対話から生まれた作品は、それぞれが彼の愛した青森の四季を謳う一篇の詩のように、私たちに語りかけてきます。
自らの創作テーマを「詩・季・彩」という言葉で語っていたように、石井がガラスで描き上げた四季、今回は秋をテーマにした作品を中心にご紹介します。

石井康治 《樹映―秋の景》
 1995年 ガラス、宙吹き 青森県立美術館寄託

石井康治 《秋宵》
1991年 ガラス、宙吹き 青森県立美術館寄託

その他の展示

棟方志功展示室, 展示室N 心のふるさと

棟方志功の故郷は青森です。
棟方はその青森を板画に、倭画に、油絵に様々に描き、また多くの著書で故郷への想いを表現してきました。
それは八甲田山の山並みや青森を取り巻く海などの心を打つ風景であり、故郷の悲運な人々の幸せを願う心であり、或いはずっと親しんできたネブタなどの風物でした。
棟方は青森の風景、人々との交流、四季の移ろい、風物などすべて含めて《青森の泣きも笑いも切なさも憂いも、みんな大好きなものです》と語っています。
しかし、また同時に、子供の頃のきびしい暮らしや、画業を容易に認めてくれない故郷の人々のことなど切ない思いもたくさんあったのではないでしょうか。
一方、棟方志功には「心のふるさと」とも言うべき存在がありました。
「心のふるさと」は多くの人が持っているものと思いますが、そこには落ち着きや安らぎがあり、出会った人々との良い思い出があり、生まれ故郷では得られなかった人との触れ合いがあります。
棟方は板画を始めてから間もなくして民芸運動を提唱していた柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らと出会いました。それが縁となって多くの先達の知遇を得、また日本各地の知人を訪ねるようになりますが、棟方はそれらの出会いによって自らを豊かにしていき、優れた作品を数多く生みだしました。
このたびの展示では青森の風物を初め棟方の心をとらえたもの、人々との出会いから生まれた作品を紹介いたします。

展示室I 成田亨 異形の神々

「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」に登場するヒーロー、怪獣、宇宙人、メカニックのデザインを手がけ、その世界観を構築した成田亨(1929-2002)。もともと美術家、彫刻家であった成田は、怪獣デザインに芸術家としての持てる力、すなわち成田が同時代の美術や西洋モダンアートから吸収した造形センスを惜しみなく怪獣デザインにつぎ込み、誰も目にしたことのない意外性を持つ形が次々に生み出され、今も変わらず愛され続けています。形そのものを創出する彫刻家の仕事をそこに認めることができるでしょう。
酒呑童子の伝説に着想を得た成田彫刻の集大成である《鬼モニュメント》(1991年)をはじめとする鬼の作品と、怪獣のデザイン原画を比較して展示いたします。

通年展示

展示室FG 奈良美智 《Puff Marshie》《Hula Hula Garden》

国内外で活躍する青森県出身の美術作家・奈良美智(1959- )は、挑むような目つきの女の子の絵や、ユーモラスでありながらどこか哀しげな犬の立体作品などで、これまで若い世代を中心に、多くの人の心をとらえてきました。
青森県立美術館では、開館前の1998年から、絵画やドローイングなど、奈良美智作品の収集を始めました。現在、170点を超えるそのコレクションの多くは、奈良が1988年から2000年まで滞在したドイツで生み出されたものです。
この展示室では、当館がほこる奈良美智の90年代のコレクションを中心に、《Puff Marshie (パフ・マーシー) 》(2006年)や《Broken Heart Bench (ブロークン・ハート・ベンチ) 》(2008年)など、作家からの寄託作品を展示しています。

アレコホール|マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の舞台背景画

青森県は1994年に、20世紀を代表する画家、マルク・シャガール (1887-1985) が制作した全4幕から成るバレエ「アレコ」の舞台背景画中、第1幕、第2幕、第4幕を収集しました。
ユダヤ人のシャガールは1941年、ナチの迫害から逃れるためにアメリカへ亡命します。バレエ「アレコ」の舞台美術は、画家がこの新大陸の地で手がけた初の大仕事でした。
1942年に初演をむかえたバレエ「アレコ」の振付を担当したのは、ロシア人ダンサーで、バレエ・リュスで活躍したレオニード・マシーン。音楽には、ピョートル・チャイコフスキーによるイ短調ピアノ三重奏曲をオーケストラ用に編曲したものが用いられ、ストーリーはアレクサンドル・プーシキンの叙情詩『ジプシー』を原作としていました。
シャガールは祖国ロシアの文化の粋を結集したこの企画に夢中になり、たくましい想像力と類いまれな色彩感覚によって、魅力あふれる舞台に仕上げたのです。