斎藤義重さいとう よししげ [1904-2001]

斎藤義重は1904(明治37)年、青森県弘前市に生まれました。幼少期は軍人の父の赴任に伴い栃木や東京を転々とし、1917(大正6)年、私立日本中学校在学中に美術や文学に開眼。ロシア未来派の美術に衝撃を受け、村山知義や柳瀬正夢らとともに大正期の前衛芸術運動に関わりました。
1920年代には文学に比重が置かれ、1930年代からは構成主義やダダイスムの影響により美術に回帰し、楕円や矩形で即物的に構成された作品を手がけました。その頃、1931(昭和6)年「第18回二科展」にレリーフ状の作品を出品しようとするも絵画か彫刻か判然とせず、最終的に持ち帰ることになったエピソードは、ジャンルの枠に収まらない斎藤作品の特徴を象徴するものと言えましょう。1936(昭和10)年の「第23回二科展」で《出立》、《アブストラクト》が入選。
1945(昭和20)年、空襲で作品、小説、ノートなどのほとんどが消失。極貧生活に窮して千葉県浦安でしばらく療養生活を送った後、1957(昭和32)年の「第4回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)」で《鬼》がK氏賞を受賞。「今日の新人57年展」で小野忠弘とともに新人賞受賞。その後も1960(昭和35)年のヴェネチア・ビエンナーレをはじめとする世界的な展覧会に連続出品し受賞を重ねます。なおこの時期の電動ドリルで制作された作品からは同時代の抽象表現の動向を受けつつ、具体的な行為によってそれを乗り越えるような姿勢を見ることができ、そうした作風はシンプルな色と形で動きを形象化する作品に継承されました。
1963(昭和38)年から横浜に転居し、翌年から多摩美術大学教授に就任。関根伸夫や菅木志雄らはじめ、後の「もの派」の美術家たちを育てました。1970年代から80年代にかけては板材を用いたレリーフやキューブ状の「反対称」シリーズや、板材を組み合わせて空間全体に展開させる大規模な「複合体」シリーズを展開。シンプルな色や形、素材の組み合わせからなる平面と立体を自在に往還するその表現形式からは、思考と物質の間で体験に重きを置き、動的なシステムとしての作品制作を志向していたことをうかがうことができ、インスタレーション(空間芸術表現)が主流となった現代アート・シーンに今も多大な影響を与え続けています。
斎藤は2001(平成13)年に横浜で亡くなりました。

あほんだらめ

《あほんだらめ》
1948(昭和23)年
油彩・キャンバス
60.5×72.7cm

青の構成

《青の構成》
1961(昭和36)年
油彩・合板
181.5×121.0cm

TREEAIZ No.3

《TREEAIZ No.3》
1976(昭和51)年
木、ステンレススチール
72.0×91.0×7.2cm