1903(明治36)年、青森市に鍛冶屋の三男として生まれた棟方志功は、幼い頃より絵を描くことを好み、ほぼ独学で油彩画を手がけるようになります。18歳の時、文芸誌『白樺』に掲載されたゴッホの《向日葵》を見て感銘を受け、油彩画家を志して、友人の松木満史、鷹山宇一、古藤正雄とともに美術サークル「青光画社」を結成、展覧会などを開催しながら絵画について研究を重ねます。1924(大正13)年に上京して帝展入選を目指しますが、落選を繰り返します。セザンヌなど後期印象派を学んだことが感じられる《八甲田山麓図》は当時の作品です。一方、この頃に「国画創作協会第5回展」に出品された川上澄生の《初夏の風》を見て感銘を受け、木版画を制作するようになり、1928(昭和3)年には日本版画協会展において初入選を果たし、また同年、油彩画《雑園》で念願の帝展初入選も果たします。
《星座の花嫁》に代表されるこの時期の棟方の版画は、川上澄生の影響を強く感じさせるものでしたが、その後、1933(昭和8)年の《萬朶譜》、1936(昭和11)年の《大和し美し》といった代表作を制作、黒と白を基調とした独自の表現スタイルを見出します。特に《大和し美し》が「第11回国画会展」に出品された際、陶芸家濱田庄司の目にとまったことをきっかけに、柳宗悦の知遇を得、その後、民芸運動の作家達との交流の中で仏教や古典文学等の知識を深めながら、より強固な独自の表現を切り開きました。1938(昭和13)年には謡曲「善知鳥」に題材をとった《勝鬘譜善知鳥版画曼荼羅》で「第2回新文展」の特選を得ましたが、これは官展において版画が受賞を果たした初の快挙でした。翌年には代表作《二菩薩釈迦十大弟子》を発表、また、1942(昭和17)年より著書の中で自らの木版画を「板画」と呼び、他の創作版画との差別化を図るようになります。
第二次大戦中は東京にとどまりますが、終戦直前の1945(昭和20)年4月に富山県福光町(現・南砺市)に疎開。同年5月の東京大空襲で自宅を焼失し、板木の多くを失いました。福光には1951(昭和26)年まで滞在。戦後の棟方は、1955(昭和30)年に「第3回サンパウロ・ビエンナーレ」で版画部門最高賞を、1956(昭和31)年に「第28回ヴェネツィア・ビエンナーレ」で国際版画大賞を受賞するなど国際的な評価を確立し、1959(昭和34)年にはロックフェラー財団とジャパン・ソサエティの招きにより初めて渡米、各地で個展を開催し、大学で「板画」の講義を行います。また、約9ヶ月の渡米中ヨーロッパへも足を延ばし、各地の美術館を見学します。
1960(昭和35)年頃から眼病が悪化し、左眼が殆ど失明状態となりますが、その旺盛な制作活動は衰えを見せず、1961(昭和36)年には青森県庁新庁舎の落成を記念し、幅7mの巨大な《花矢の柵》を制作、その後も《大世界の柵》など大型の作品を手がけました。1970(昭和45)年には文化勲章を受章。「板画」の他、自ら「倭画」と名づけた即興的な日本画を数多く制作、大衆的な人気をも獲得していきました。
1973(昭和48)年、鎌倉市に財団法人棟方板画館を開館しましたが、翌年に健康を害して入院、1975(昭和50)年5月に東京の自宅で死去。同年11月、青森市に棟方志功記念館が開館しました。