工藤哲巳くどう てつみ [1935-1990]

1935 (昭和10) 年に五所川原市出身の画家・工藤正義の長男として大阪に生まれます。父、正義は東京美術学校卒業後、大阪の堺中学校で美術教師をしており、母、淑子も兵庫県の加古川女学校でやはり美術の教師をしていましたが、戦争の激化とともに、青森に戻り、正義は青森師範学校で教鞭をとりました。そうした環境下で哲巳は、幼時から絵を描きはじめます。1945(昭和20)年の終戦後、父正義が亡くなると、五所川原市から弘前市に転居。中学三年の時、母の郷里岡山市に移り、新制の東京藝術大学に入学します。専門課程では林武の教室に籍を置きますが、反発して授業には出ず、自らの制作の方向を模索し、物理学関係の概説書や、科学雑誌の鉱物の結晶、細胞の電子顕微鏡写真のカラー図版などに大きく影響をうけます。
そして、初期作品の点の集合である平面から、白や黄色のビニール紐を結び合わせてタワシに絡ませた立体作品へと展開し、1960(昭和35)年の「第12回読売アンデパンダン展」出品作である≪増殖性連鎖反応(B)≫は、東野芳明により「ガラクタの反芸術」と評されました。1960-61(昭和35-36)年の《インポ哲学》はその集大成ともいうべき大作です。
1962年、第2回国際青年美術家展大賞副賞のヨーロッパ行きの切符で夫人とともに、パリにわたり、ショッキングな表現、猥褻な表現を組み合わせた作品でヨーロッパの不能化したヒューマニズムを攻撃しました。1969(昭和44)年から一時帰国し、千葉県の南房総国定公園鋸山の岩壁に、巨大なレリーフ≪脱皮の記念碑(サナギ)≫を刻みつけるプロジェクトを行い、その後パリに戻ると新たなテーマとして「環境汚染」をとりあげ、1970(昭和45)年頃から、「環境汚染―養殖―新しいエコロジー」と題された一連の作品を制作しました。
1970年代後半には、一転して《危機の中の芸術家の肖像》など内省的、瞑想的な作品を制作し始めます。1977(昭和52)年にサンパウロ・ビエンナーレ特別名誉賞を受賞し、また同年にはパリ、ポンピドーセンター開館記念展に≪環境汚染―養殖―新しいエコロジー≫が出品されるなど、徐々に国際的な評価も高まっていきます。
1980(昭和55)年、アルコール中毒治療のため入院。1983(昭和58)年、帰国し、弘前市にアトリエを構え、パリと津軽を往復するようになります。このころ、《縄文の精子の生き残り》など、津軽凧、縄文をモチーフとした作品を制作、1986(昭和61)年には、弘前市立博物館における父正義の回顧展の開催に関わります。故郷では津軽文化褒章受賞。翌1987(昭和62)年、母校の東京藝術大学教授に就任しましたが、すでに喉頭癌に冒されており、1990(平成2)年に死去。没後、評価は高まりつづけ、国内では1994(平成6)年に国立国際美術館、岡山県立美術館で「工藤哲巳回顧展―異議と創造」、2013-14(平成25-26)年に国立国際美術館、東京国立近代美術館、青森県立美術館で「あなたの肖像―工藤哲巳回顧展」を開催。国外でも2007(平成9)年にパリのメゾン・ルージュ、2008-9(平成10-11)年にミネアポリスのウォーカー・アート・センター、2016-17(平成28-29)年にカッセルのフレデリチアヌム美術館で回顧展が開催されました。

インポ哲学

《インポ哲学》
1960-61(昭和35-36)年
木、プラスチックのボウル、ポリエステル、電球、毛髪、縄、絵具、布、シリンダー(不織布)、接着剤
110.0×540.0×90.0 / 200.0×200.0×17.5cm

危機の中の芸術家の肖像

《危機の中の芸術家の肖像》
1978(昭和53)年
鳥籠、綿、プラスチック、ポリエステル、樹脂、毛糸、編み棒、おもちゃの鳥、硬貨、錠剤、毛髪、接着剤
29.0×45.0×20.0cm

縄文の精子の生き残り

《縄文の精子の生き残り》
1986(昭和61)年
糸、コード、接着剤
51.0×40.0cm