日誌

A-ism vol.7

2003年2月1日

SHARE
A-ism vol.7

A-ism vol.7

A-ism (エイ・イズム) はAomorism (アオモリズム) 、つまり「青森主義」を意味します。青森特有の精神風土を活かしながら、新世紀にふさわしい個性的な美術館を目指す館の情報を、A-ismにて発信してきました。
※美術館整備通信をvol4より「A-ism」に名称変更。

アートが作るネットワークとは? -「キッズ・アートワールドあおもり2002」が残したもの

美術館整備室が毎年夏に開催してきた、こどもを対象にしたアートプロジェクト〈キッズ・アートワールドあおもり2002〉。三回目となる今回は、はじめて県庁所在地の青森市から離れ、三戸町、田子町、南部町という南部地方の三つの町を会場に行われました。当室のスタッフと地域のスタッフ、地域のスタッフとアーティスト、そしてこどもたちとアーティスト。このプロジェクトが彼らの間にもたらしたつながりとはいったいどのようなものだったのでしょうか。

アートが生み出す地域との絆

黒岩恭介(青森県美術館整備推進監)

美術館建設のプレイベントとして毎年開催されている〈キッズ・アートワールド あおもり〉も今年度で三回目を迎えた。前二回は青森市内を開催地とし、ようやく市内の商店街や地元の関係者などによる、このイベントに対する認知度も高まり、ある種の期待感、あるいは活動空間の提供などの協力の意識、が醸成され、ある程度、青森市内における美術館準備活動としての役割は果たしたように思われる。といってもこのまま市内で三回四回とやれば、それだけ市民(成長するこどもたちをもちろん含むのだが)と美術館との関係が密接になり、所期の目的も十分に果たされるのだろうが、われわれは全県下を活動領域とする、県の組織なので、青森市内だけにとどまることは許されない。われわれは今回はじめて、市外に出たのであった。
さて青森市外でこの事業を展開するにあたっては、市内で展開する場合と比べて、大きくその方法論を異にする。市内においては、この事業全体はわれわれの室が担い、補助的な仕事をボランティア等にお願いすればよかった。しかし青森市を離れてやるとなると、当然のことながら、開催地域との密接な協力が必要となる。作業の役割分担等、協同体制をしかなければならない。これはわれわれにとって初めての経験なので、地域との作業の進め方は試行錯誤であり、ノウハウの獲得を志向する、実験的な意味合いもあった。またこの協同作業は、今回限りの一時的なものに限定してはならない、との思いもあった。なぜなら、今後美術館活動を全県的に展開するにあたって、こういった協同作業の積み重ねが、施設的なネットワークおよび人的ネットワークの基盤となるからである。このネットワークはその名前のとおり、地域間のネットワークであり、県との双方向のネットワークである。今回の経験に基づいて、地域で独自に美術文化をテーマにした事業を企画する場合など、県との連動、協力など、このネットワークが役に立つはずである。今回の、三戸町、田子町、南部町との協同事業は、相互に初めての経験である以上、誤解や期待はずれが、お互いにあったことと思う。そのもっとも大きな原因は、現在活躍している現役アーティストが地域を訪れて、どのような活動を展開するのか、という具体的なイメージを共有することが、はなはだ困難だったという事実につきる。実際、事業が終わってから、このようなイベントだったなら、というか内容が分かっていたなら、あーすれば良かった、こうすれば良かったという、反省が各町から寄せられたことが、そのことを端的に物語っている。これは今後われわれが他の地域でこの〈キッズ・アートワールド あおもり〉を行うにあたって、解決しておかねばならない課題となるであろう。
最後に今回特に印象に残ったことを述べておこう。それはこどもたちとアーティストとの関係である。おそらくこどもたちを相手にするのが初めての体験であったというアーティストに、それは顕著に感じられた。すなわちこどもたちがアーティストに影響を与えるという、いわば逆転現象のことを言っているのである。なるほど、アーティストは社会や歴史に影響を与える存在である。しかしこどもたちと直接交流し、創造的な協同作業を行う過程で、こどもたちの方がかえってアーティストを触発する場面が多々発生したのである。おそらくこどもたちの方はそれ以上に、アーティストとまみえることによって、深い体験をしたはずであろうけれども。この事業の醍醐味はこういったこどもたちとアーティストの相互侵犯にあるのかもしれない。

「こどもの時間」が結ぶもの

板倉容子(学芸員)

それは〈キッズ・アートワールドあおもり2002〉(以下〈キッズ〉と略す)が開催される二ヶ月以上も前、参加アーティストの一人とワークショップの構想を練っていた時のことだった。彼がおこなうワークショップの最終日、こどもたちに自分が作った作品の説明発表をしてもらおうという話になった時、彼が心配そうに、こんなことを呟いた。「しかし、こどもたちの中には、みんなの前でうまく喋れなくて、黙って困っちゃう子とかいるんじゃないかな。自分がまさにそうだったからねえ。みんなの前で喋るなんて、とんでもないことだったよ」。彼の言い方は、うまく喋れないこどもに対する思いやりというよりはむしろ、深い共感というべきニュアンスを帯びていて、それが妙に面白かった。
〈キッズ〉がはじまり、ほかのアーティストのワークショップを見ている時、彼の言葉を思い出す瞬間が何度かあった。アーティストが、こどもたち一人一人の小さな声に熱心に耳を傾けながら、彼らが制作した作品一点一点について丁寧に感想を話しているのを聞いたときに。あるいは、自分の納得のいく作品に仕上げるため、他のこどもたちよりも作業がかなり遅れてしまっているたった一人のこどものために、ワークショップの時間が終わった後もずっと付き添っているアーティストの姿を目にしたときに。
自分だけの時間(ペース)を大切にしながら生きていくということは、私たちが生きている世界の中で、いつも許されているわけではない。他人に迷惑をかけず、皆と同じペースで、効率良くやっていかなければならない世界があるのも事実だ。しかし、今回の〈キッズ〉では、同じ表現者として、こどもたちの時間(ペース)を何よりも尊重し、それぞれの表現の現れ方に共感を持って接するアーティストの姿勢こそが、こどもたちとアーティストとの結びつきを深めていったように思われた。
ところで、今年の〈キッズ〉は初めて青森市を離れ、三戸町、田子町、南部町と共同で開催したのだが、三つの町のスタッフと接していて一番印象深かったのは、彼らが自分のこどもに対するように町のこどもたちに接しているということであった。そこには、幼い頃から一人一人の成長を温かく見守ってきたのであろう時間の積み重ねが感じられた。だからこそ、こどもたちとアーティストの結びつきは自然に、町のスタッフとアーティストとの結びつきへと広がっていったように思う。
一人一人のこどもを尊重しようとするアーティスト―それは取りも直さず、一人一人の人間の表現を尊重しようとする態度に他ならないと思うのだが―、素直にアーティストと接しながら、楽しくも真剣に自分の表現に取り組むこどもたち、そして、その関係の中に大切な何かを見出すことができる町の人達の視線。もしも〈キッズ・アートワールドあおもり2002〉を通してネットワークが生まれたのなら、この結びつきこそが全てのはじまりであったと思うのだ。

開催地のスタッフに聞く―〈キッズ・アートワールド〉ってなんだった?―

三戸町教育委員会社会教育課主事 寺尾 葉

正直いえば〈キッズ・アートワールド〉が三戸町にくると聞いたとき私が抱いた感想は「この人たちは(担当の方々です、ごめんなさい。)こども達に何を求めているんだろう、こどもにアートなんて分かるはずがないのに。」というものだった。アートという概念はあまりに広すぎるし、抽象的だから、こどもにアートを体験させるといわれてもピンと来なかった。所詮、私たちが普段こども対象に行っている体験活動と何ら変わりがないように思えたのだ。今でも基本的にはその考えに変わりはないけれど、キッズアートの約2週間を経験してみて新たに発見したことは多くあった。
ひとつは、ワークショップがこども達の自由な発想で成り立ち、進行していて、それはアートの基本姿勢に共通するものだということ。
二つ目は、こども達はどんな新しい経験でも、驚くほどの柔軟性でそれらを日常のものに変えてしまうこと。「経験すること」がこどもたちの未来に与える影響は、本当に計り知れないとあらためて思い知らされた。
〈キッズ・アートワールド〉で一緒に過ごしたこども達は、思いもよらない瞬間に新しい才能を垣間見せてくれた。新しい世界との出会いの副産物が才能なら、もっとたくさんの世界をこども達には知ってほしいと思う。〈キッズ〉によって世界が広がり、そこで得たことが新たな世界と発想に繋がることを願いたい。

田子町教育委員会社会教育課課長補佐 伊藤 淳

人事異動により、4月1日付社会教育課に配属になった。引継ぎで〈キッズ・アートワールド あおもり2002〉の文字が目についた。配属になったばかりの私は、経緯もわからず「〈キッズ〉って何だ?」。皆目検討がつかないまま準備を進めなければならなかった。
「こどもが芸術の世界を楽しむイベント」を田子町で???…。それも、1つのワークショップに20人もの参加者を要する。期間も8月6日から8月18日までと長期戦だ。さらには8月のお盆の真っ最中。率直に「冗談じゃない。お盆はこの地域では一大行事である。町民の意識では盆前と正月前は一番多忙な時期である。こどもたちとて例外ではない。まして、アートという分野に何人興味があるのか。」と考えた。
しかしこうした懸念はすべて、我々大人の貧困な既成概念や常識にとらわれた被害妄想的なものであったことを、後に私は認めることになる。
準備の途中で気づいた。事前の下見で田子町を訪れた作家と話し合う機会を得た時である。最初は、「この作家(ひと)は何をしようとしているのか?」と穿鑿していたのだが、話を聞いているうちに「ああ、この人は何かをしようとしているのではなく、何ができるかを模索しているのだ」と分かった。それなら私たちと同じであると安堵した。そして彼らが「キッズ」にこだわるのは「既成概念を持たないこどもの感性そのものが実はアートである」と考えるからだ、と知った。
期間中、無理矢理集めたこどもたちは周囲の不安をよそに、みごとに「アートワールド」に引き込まれていった。そして、驚くほどの「感性」を発揮して大胆な「アート」を築いていった。こどもたちと対等に向き合った「作家」たち。そして、一つの空間で一体となった「アーティストたち」から不思議なパワーと懐かしい感覚を感じたのは私だけではなかったことだろう。
忘れかけていた「遊び心」を思い出させてくれた〈キッズ・アートワールド〉。私の「夏の思い出」でした。

南部町教育委員会社会教育課 課長補佐 谷内 恭介

〈キッズ・アート・ワールドあおもり2002〉が三戸・田子・南部で開催され、当町においても、多方面で御活躍されている著名なアーティストの方々とふれあう機会を与えてくださったことに大変感謝いたしております。参加されたこども達はみな大変喜んで活動し、夏休みの良い思い出になったようです。路上観察家である林丈二氏の「私選定『南部町「観光案外」絵葉書セット』作り」では、自分達の住んでいる地域を時間をかけて歩き、身近なものを見たり、発見したりする活動を行いました。自分の生活している場所にはこんなに素敵なところがあるんだなあと、あらためて再発見するよい機会になったようです。また、料理研究家である福田里香氏の「化石フードパーティー」では、果物を使った活動を行い、県南果樹センターでのブルーベリーや桃の収穫、また、地元の農家の方々からの果物の提供もありました。それから、地域の方々を招待しての活動もあり、2日間を通して地域の人たちや特産物とのふれあいを体験することができたようです。4日間と2日間、短い期間ではありましたが、南部町の特性を上手に生かした活動をアーティストの御二人は考えて下さったようです。そして、こどもたちにとってはいつまでも心に残る、充実した時間ではなかったかと感じています。

esperanza エスペランサ 青森県立美術館に望む

第4回 北島敬三(写真家)

メモ:変死する写真

私は、美術館やギャラリーに飾られている写真には、どこか違和感を持つ。作品然とした写真を見ると、それがどんなにショッキングな被写体であろうと、あるいは重厚な支持体にささえられた巨大プリントであっても、結局とり澄ました弱々しいものに感じてしまう。そこでは、写真特有の<強度>が失われ、物足りなさを感じてしまうのだ。
もとより写真は、純粋な<イメージ>ではないし、あるいは確かな<物体>でもない。<イメージ>と<物>との中間に位置するような不安定な存在である。実際、写真は手で破くことができる。無論、絵画も破くことはできる。だが、そうではない。破かれて物質に帰る絵画とは違い、写真の断片は、そこでまた新たな<イメージ>を生成してしまう。それはまさに、一枚の写真にほかならない。逆に言うと、あらゆる写真はそもそも断片的な物であり、つねに複数的なイメージなのである。つまり、作品というものが持つ同一性や全体性は、写真においては初めからすでに解体されているのである。
また私は、写真が美術史にその一部としてすんなり組み込まれてゆくことにも抵抗感をもっている。
写真史が、写真作家史あるいは写真作品史として語られるときの胡散臭さもそこにある。R.クラウスが指摘するように、写真草創期に生涯2年間だけ写真を撮った人をあえて写真家と呼び、あるいはアジェの写真の整理番号(図書館の整理のため)をその作品性の証と誤読するような写真史はいくらでも見つかる。あるいはまた、J.クレリーによって批判、証明されたにもかかわらず、カメラ・オブスキュラとカメラとを連続した視覚装置とみなし、したがって写真的な視覚は絵画がすでに内包していたとするような、美術史中心主義もいまだに根強く残っている。だが、私は「19世紀に始まった写真の時代は、もし視覚の歴史といったものがあるとすれば、人類がそれまで経験したことがないほど大きな視覚の変容をもたらした、ある特殊な時代なのだ」という認識に同意している。美術史のような写真史など無意味だと思っている。
意外にも、写真が美術館やギャラリーに展示されるようになったのは、ごく最近のことである。
まず、60〜70年代のコンセプチュアルアートの作家が写真を多用したということがあった。つまり、美術館に展示したりギャラリーで売買することが不可能な作品の等価物として写真が取り扱われたのである。そこではじめて美術品として写真が流通するシステムが確立したのだ。その頃、多くの美術館が写真専門のセクションを作り、写真専用の展示スペースを確保し、写真を専門に売るギャラリーも出現しはじめた。80年代、いわゆるポストモダンの時代になると、写真がもっている脱構築する力といったものを、美術そのものを脱構築するために利用したということがある。写真を内在させた多くの絵画作品が制作され、写真家もまた頻繁に美術館に召喚されるようになる。さらに、美術制度のなかでのマイナー・メディアの位置づけを見直すという文脈のなかで、写真自体がPC(ポリティカル・コレクトネス)の対象になったということもある。いまだに絵画を頂点としたヒエラルキーが厳然と残ってはいるにしても、とりあえずは、写真も絵画や彫刻その他と同等に美術館やギャラリーに並べられるようになったのである。
しかし現在、そうした絵画や彫刻、写真といったジャンル分けを規定していたモダニズムの枠組み自体が無効になりつつあるのも事実だ。特に、1989年頃に冷戦構造が解体してからは、美術作品を価値判断する基準が無際限に拡大しているように思われる。そこでは、あらゆる解釈が可能になり、したがって、あらゆるものが正当性を持ちえるということである。もはや、特権的な価値やジャンルなど存在しないのである。美術制度の中で、写真がその正当性を主張する必要もまったく無い。むしろ逆に、この決定不能という事態の中で、写真は自らの役割を終えればよい。もともと写真は、誰にでも撮れるし、何処にでもあるものなのだ。
今後、写真というメディアは徐々に衰退していくだろう。
去年ついにデジタルカメラの生産量が従来型カメラのそれを上回ったという。最近のインターネットやコンピューターグラフィックス、あるいは3Dホログラフィーやバーチャル・ヘルメット、スーツなどの発達には目をみはるものがある。また、湾岸戦争のハイテク映像が私たちの知覚にあたえた影響も計り知れない。そういった仮想的な視覚空間においては、<写真=イメージ>がもっていた遠近法的な空間、観察者としての主体、現実の指示対象、ミメーシスのコード、複製機能といったものがことごとく消滅してしまっている。まったく新しい知覚空間が広がりつつあるのだ。それは、私達が慣れ親しんできた視覚空間が衰退していくということでもある。写真という19世紀的な視覚装置によって遡及的に生まれた<見る主体>というものが徐々に死んでゆくといってもいい。もともと<複数性>として生まれた写真は、その死においても同一性を持つことはない。拡散し変容する写真の死。そういった時代において、なお<作家>の名において写真を撮るということにどれほど積極的な意味があるのか。あるいは写真を<作品>という名のもとに美術館やギャラリーに展示するということに、はたしてどういうリアリティーがあるのか。そのことが問われているように思われる。

きたじま・けいぞう
1954年、長野県生まれ。75年にワークショップ写真学校の森山大道教室に参加し、翌年、森山らとともに自主ギャラリー「イメージ・ショップCAMP」を設立。82年に刊行した写真集『New York』(白夜書房)で木村伊兵衛賞を受賞。91年には、世界の大都市を大型のカメラで撮影した写真の展覧会「A.D. 1991」(パルコギャラリー/東京)を開催し、写真集『A.D. 1991』(1991年、河出書房新社)を刊行。2001年、当室のプロジェクト〈キッズ・アートワールドあおもり2001〉に招聘アーティストとして参加。また同年から翌年にかけて、近年取り組んでいるシリーズ「PORTRAITS」の展覧会「北島敬三写真展: PORTRAITS」を川崎市市民ミュージアムで開催。現在は写真家の仲間とともに運営する新宿の自主ギャラリー「photographers’ gallery」(2001年開廊)を拠点に活躍。