日誌

A-ism vol.6

2002年7月1日

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A-ism vol.6

A-ism vol.6

A-ism (エイ・イズム) はAomorism (アオモリズム) 、つまり「青森主義」を意味します。青森特有の精神風土を活かしながら、新世紀にふさわしい個性的な美術館を目指す館の情報を、A-ismにて発信してきました。
※美術館整備通信をvol4より「A-ism」に名称変更。

美術館のコレクション ― 工藤哲巳展をめぐって

コレクションについて

黒岩恭介(青森県美術館整備推進監)

「科学的、歴史的、あるいは芸術的価値を持った作品を収集し、保管し、研究し、展示し、教育的解説を行うための建物、場所、あるいは施設」。これはミュージアム(博物館・美術館)の一般的定義である。つまりミュージアムの基本は作品収集ということになる。美術館の場合でいうなら、芸術的価値をもった作品の収集である。まず収集ありき。芸術的価値の高いコレクションを形成することは、即その美術館の格を形成することにつながる。コレクションは美術館の命ということがよく言われる所以である。

問題は具体的にどのような作品を収集するかということである。美術館の理想をいえば、古今東西、歴史の流れに沿ってあらゆる時代あらゆる地域の、芸術的価値を持った美術作品を収集することだろう。現実にルーブル美術館やメトロポリタン美術館、ワシントン・ナショナル・ギャラリーなどはその方向を進んでいる。しかし圧倒的多数の美術館はもっと専門化して収集を行っているのが現実である。地域、あるいは時代を限定して、たとえば、近代美術館、現代美術館、一人のアーティストに捧げられた個人美術館、アジア美術館などが、設立者のコンセプトに従って建設されている。

さて青森県立美術館(仮称)のコレクションはどうなっているのか。美術館建設基本計画のなかに、「(1)近・現代の青森県出身作家およびゆかりのある作家の優れた美術作品並びに関連資料。(2)青森県以外の近・現代の美術状況に対応するために必要な優れた美術作品並びに関連資料。(3)今に生きる県民の心の原点に関わり、未来に資する関連資料」を収集すると謳われている。ここで明確になっているのは近代および現代という時代の指定である。しかし地域的な限定はない。すなわち青森県を中心とした日本および海外の美術動向をターゲットとするものと考える。またここでキーワードと思われるのは、美術作品という言葉を修飾している「優れた」という形容詞である。

同時代を見渡せば、夥しい数の美術作品が、日々生産されていることがわかる。たとえば銀座の画廊では年間を通してさまざまな個展やグループ展がひっきりなしに開催されているし、上野の美術館では美術団体の展覧会が目白押しである。その中でコレクションするにふさわしい「優れた」美術作品とはいったいどういうものなのか。少なくとも「優れた」とみなされるのは、趣味判断によるのではない。美術はひとつの歴史である。その歴史は「優れた」美術作品の連なりによって形成されている。したがって「優れた」美術作品とは、時代を真に代表する作品のことである。様式的にであれ、内容においてであれ、「優れた」美術作品はそれが生まれた時代あるいは来るべき時代を的確に表現しているのである。しかしそれは同時代にあっては見えにくい場合もある。時代にもてはやされた作品が、その時代を真に代表しているとは限らない。それはいやというほど美術の歴史の中に見ることができる悲喜劇的な現象である。だから美術の歴史は絶えず見直される。見直しの作業を繰り返し行うのは、いまや美術館の大きな役割でもある。オールド・マスターとかモダン・マスターとか称されるアーティストは、そういった歴史の見直し作業に耐えてきた芸術家のことである。

新しい世紀を迎えた今、二十世紀の美術を見直す展覧会が数多く開催されるだろうし、青森県でも開催していくことになる。その中から真に二十世紀を代表する作品が浮かび上がってくるはずだ。そんな「優れた」作品を、コレクションを始めたばかりの青森県はこれからも地道に収集していこうと思う。たとえば今回の「アートツアー・イン青森」で取り上げた工藤哲巳のコレクションを考えてみよう。彼は青森県出身でしかも現代美術の一角を担ってきたアーティストである。現代美術を収集する美術館なら必ず収集の対象となる作家だ。様式的観点から見れば、六十年代以降主流を形成したオブジェという表現形式を採用し、われわれの日常的な意識に衝撃を与える制作を行っている。芸術とは意識の覚醒であることの、それは端的な例である。また彼の取り組んだテーマのひとつである環境問題は、二十一世紀を迎えてますます大きくなっていく抜き差しならぬ大問題である。工藤哲巳はそれを芸術家の直観で社会に警鐘を鳴らす形でリアルに提示したが、その重要性は今後ますます大きくなっていくはずだ。そんな作家の生涯にわたる仕事を展望できるコレクションを形成することは青森県の責務でもあり特権でもある。それに応える形で、青森県は、工藤哲巳の作品を水彩や素描を含めて、今現在七十点あまり収集しているのである。

工藤哲巳展を終えて

三好徹(学芸員)

5月19日、1ヶ月にわたる展覧会を終えた。工藤哲巳の出身地である五所川原市のオルテンシアを会場に、2000人を超える入場者を迎えた。今年度より始まった「アートツアー・イン青森」と銘打った県立美術館開館に向けてのプレイベントの第一弾である。

「アートツアー・イン青森」とは、青森県が持つ創造的エネルギーを掘り起こし、発信するという県立美術館が目指す活動の一端を理解してもらうため、県内各地を巡りながら、ゆかりの作家の展覧会や青森県が持つ魅力を発信するアートプロジェクトなどを展開していくプレイベントである。

第一弾に工藤哲巳を採り上げた理由としては、ひとつには美術館コレクションの重要な位置づけとなる作家であること、次に工藤作品については質量ともに世界に誇れるコレクションとなってはいるものの、未だ公開していなかったこと、そして国内外の美術館に作品が収蔵され、その美術史的な評価を得ているものの、県内では比較的知られていなかったことなどが挙げられる。

担当として会場に詰め、作品解説など直接に来館者と接し、またアンケートを見て言えることであるが、やはり「青森県からこういう美術家が出ていたとは知らなかった」「工藤の作品に共感できた」「実際に作品を見て、解説などを聞いて、ある程度理解できた」「こういう企画をもっとやってほしい」などの声が圧倒的であった。工藤哲巳に対する関心、県立美術館開館に向けての期待感を持っていただいたことで、「アートツアー・イン青森」の役目は果たせたのではないかと思う。

ところで、美術館がコレクションを持ち、それを展示することは、美術館の基本的な機能であることは言うまでもない。収集した作品は、調査・研究、常設展示、他の美術館への貸出しなどに活用される。工藤哲巳の作品も常設展示されることとなる。棟方志功の作品も然り。常設展示はいわば美術館の顔である。現在、県出身及びゆかりの作家を中心とする基礎コレクションの充実を図り、更なる展開をすべく作品収集に努めている。青森県からは、工藤、棟方をはじめ寺山修司らユニークな芸術表現の領域を切り拓いた美術家を多数輩出している。単なる県出身作家という観点ではなく、青森県の作家が持つエネルギッシュでユニークな特性の意味を問い、探る場として、これらの常設展示を考えていきたいと思う。それが、地域に根ざすことによって国際的に発信する青森県の美術館としての存在意義を示すことになるであろう。

地方の公立美術館の在り方として重要なことは、地域住民に愛され、育てられることである。そのコレクションは、自分たちの宝物であり、誇りであると言ってもらえることである。そのためには、われわれ美術館活動に携わるものが、コレクション形成なり、展覧会なり、アートプロジェクトなり、さまざまな活動において、理解と協力を得て、そして共に美術館を作り上げていくのだという意識を共有できるように努めていかなければならない。

今、工藤哲巳展を終えてみて、その思いを強くした。

工藤哲巳 略歴
1935  父正義(新制作派協会所属の画家)が東京美術学校卒業後、美術教師として赴任していた大阪で誕生。
1942  父正義帰郷。父の実家から五所川原市七ッ舘国民学校に通う。
1943  父正義、青森師範学校教授となる。
1945  10月、父正義死去。享年39歳。その後、青森師範学校美術科の講師となった母と共に、弘前市に移り住み、朝陽小学校、弘前第四中学校に通う。
1948  母の郷里岡山へ移る。丸の内中学校(岡山)へ転校。
1950  4月、操山高校(岡山)入学。
1953  3月、操山高校(岡山)卒業。東京芸術大学受験に失敗。東京、阿佐ヶ谷の三輪研究所へ通う。
1954  4月、東京芸術大学に入学し、林武教室に所属。
1958  東京芸術大学卒業。
1957-62 読売アンデパンダン展、グループ「鋭」展を中心に活動。
1962  第二回国際青年美術家展大賞受賞。5月4日、夫人とともにパリに渡る。
1975  岡山にて「=工藤哲巳・吉岡康弘= 岡山の生んだ異才とその周辺」展開催。
1977  サンパウロ・ビエンナーレ特別賞受賞。パリ、ポンピドーセンター開館記念展出品。
1978  ドイツ学術交流基金(DAAD)により一年間ベルリンへ招待される。
1981-82 「1960年代−現代美術の転換期」展(東京、京都国立近代美術館)出品
1982  「第1回現代芸術祭 -瀧口修造と戦後美術」展(富山県立近代美術館)出品
1983  帰国、弘前市にアトリエをかまえ、日本とパリを往復する。
1984  「津軽文化褒賞」(五所川原市)受賞。同時に夫人へ「内助功労賞」。「現代東北美術の状況展」(福島県立美術館)、「現代絵画の20年」展(群馬県立近代美術館)出品。弘前市立博物館にて父正義の回顧展開催。
1986  「ひとりの作家の歩んだ道 工藤哲巳の世界」展(弘前市立博物館)
1987  東京芸術大学油画科教授となる。
1990  11月12日、結腸癌のため、東京都千代田区の三楽病院で死去。享年55歳。
1994-95 「工藤哲巳回顧展−異議と創造」展(国立国際美術館、岡山県立美術館)

talk show & workshops

篠原有司男 vs 秋山祐徳太子(美術家)

トークショー talk show ダイジェスト
日時: 5月4日(土) 13:00〜15:00
会場: ふるさと交流圏民センター オルテンシア 大ホール[五所川原市]

「工藤哲巳とその時代を語る」
東京芸術大学で工藤と同級生であった篠原有司男氏と、工藤と同じ年齢でハプニングなどの表現活動を行ってきた秋山祐徳太子氏が、工藤哲巳とその時代について、熱く語りあいました。

篠原: 工藤も俺も芸大(東京芸術大学)だけど、あの頃の芸大には個性的なやつがいたよなぁ。高松次郎、中西夏之、磯部行久、新宮晋とかね。工藤はあの頃よく喫茶店なんかで絵かいてたよ。

秋山: 芸大時代に工藤は林教室だった。ある日、デッサンの時間に林武がやってきて、彼のデッサンをパーンパーンと描き直しちゃって、工藤はあれでひどく傷ついたらしいね。それ以来しばらく学校行かなかったって。で、その時に彼の中に「反」つまり「アンチ」の精神が芽生えたんだ。

篠原: 芸大時代の工藤の座右の銘は「筆は剣」。絵具が足らないってこともあるけど、少しの絵具で切り込むように、すごい集中力で描くんだ。気合の入り方が違うんだよ。そうでもしないとヨーロッパの連中に切り込めないからね。

秋山: 彼の作品は紐から始まって最後も「縄文」で、縄とか糸。いつもなんか増殖的な紐状のものにこだわってんだよね。「長いものに巻かれる」ってよく言うけど、彼の場合は「長いもので巻いちゃう」って感じだね。攻撃的だからさ。

篠原: とにかくあの頃は全然金がない。一銭も。美術館は東京都美術館だけ。画廊は東京画廊と南画廊の二軒。夢も希望も全然なかったけど、とにかくアカデミズムを打ち破らなきゃっていう意気込みだけはあったね。「読売アンデパンダン」は当時、すごく安い費用で出品できた。だから部屋いっぱい使って、とてつもない作品出してるやつがいっぱいいて、展覧会が終わってもなかなか作品を撤去しないもんだから、結局、美術館の人たちが美術館の裏で出品作を燃やしてんの。でも僕たちもそれで平気だった。

秋山: 「読売アンデパンダン」に工藤が出したパンとタワシを使った作品が強烈に記憶にあるね。僕は「読売アンデパンダン」展応募しなかった。だって工藤とか怖そうじゃない。僕はちょっと距離を置いていたかった。ジェントルマンだから(笑)。

篠原: 「読売アンデパンダン」展の頃は廃物で作ってた。つまり「ジャンクアート」。ニューヨークの「ジャンクアート」の王様はラウシェンバーグで、俺はコカコーラの瓶を使った彼の作品をそのまま真似て作ってみたんだ。人真似だから、すごく無責任に作るんだけど、仕上がった時、なぜかとても爽快感があった。廃物がいかにアートになるかってことにね。工藤もタワシ使ってたよ。俺はコカコーラどまりだけどね。・・・ほら、7分でできちゃった。7分で1点だぜ。

秋山: 工藤も天国で笑ってんだろうな。

篠原: 吹き出してるだろうな。あいつ。

秋山: こういうの見てるとあの時代の感覚思い出すね。

ワークショップ workshops
日時: 5月5日(日) 10:00〜12:00
会場: ふるさと交流圏民センター オルテンシア

■「ボクシングペインティング」 篠原有司男
横に広がる白いキャンヴァスに、墨汁を含ませたボクシンググローブを打ちつけていく「ボクシングペインティング」を、篠原有司男氏がはじめたのは1950年代の終わりのことでした。以来、戦後の日本に噴出した前衛美術のエネルギーを色濃く留めるものとして、篠原氏の代表的なパフォーマンスとなったこの「ボクシングペインティング」が、津軽平野でダイナミックに再現されました。

■「なんでもアート」 秋山祐徳太子
秋山祐徳太子氏は、参加者に好きな材料を持ち寄ってもらい、何でもアートにしてしまうワークショップを行いました。参加者には、篠原氏の3秒似顔絵がプレゼントされました。

esperanza エスペランサ 青森県立美術館に望む

第3回 奈良美智(美術家)

縄文と美術館で思い出したこと

小学校の高学年の頃、土器を発掘するのが流行ったことがあった。どこそこの神社の床下を掘ると出るらしいと聞けば、みんな競うようにして自転車を走らせた。その頃、弘前公園の中にある建物で土器が見れるという情報もゲットして、日曜日になると弘前公園に向かってペダルをこいだ。追手門をくぐって左におれて、市民会館の脇を進むとそこには小さな建物があって県内から出土した縄文式土器やなんかが展示されていた。人気の無い展示室でガラスケースの中を覗きこんでいると心がときめいたものだ。そのときめきは博物館学的な興味によるものではなく、薄茶けた古代のかけらにそれを作ったであろう人という存在を想うという少しロマンチックな気持ちだった。後にその資料館は同じ公園内での市立博物館の建設と完成に伴い無くなってしまったと記憶しているが、立派な博物館ができた頃は小学生の気まぐれな考古熱も冷めてしまい、新しく流行りだした切手集めにみんな熱中するようになっていた。

新しく建った博物館には中学、高校と何回か行ったはずなのだけど、今こうして当時を回想してみても何故か思い出せず、あの小さな小屋のような資料館だけが、あの頃の気持ちそのままに頭の中に浮かんでくるのはなぜだろう。あれが生まれて初めてのミュージアム体験らしきものだったからだとも思うけれど、それだけではないことは確かだ。

高校卒業後、上京して一人暮らしにも慣れたある日の午後、僕は上野公園にある西洋美術館で一枚の絵の前にずっとたたずんでいた。その絵はヴィンセント・ヴァン・ゴッホの油絵で、彼特有の生き生きとしたタッチと色で郵便配達夫が描かれていたのだけれど、僕をその絵の前に留まらせていたものは、色や構図が良いとかモチーフがどうとかそんな感慨とは違っていたと思う。それは絵の前に立った時の「まさにこの位置に画家が立っていたのだ!」という感動だったのだ。画家はここに絵筆とパレットを持って立ち、このキャンヴァスとその少し向こうで椅子に座ってポーズをとるモデルとを交互に見つめながら描いていたんだと思うと、その場所から動けなかったのだ。絵が掛けられた壁の向こうにポーズをとっている郵便配達夫が確かに居て、僕は彼までの距離すらはっきりと感じられるようで、その奇妙な感覚をずっと体験していたかったのだ。たった一枚の絵が、僕の体をタイムマシンのように時と場所を越えさせていること。それは幼い頃にあのちっぽけな資料館で見た土器、その土器の表面にまとわりつくように動いた縄文人の手を感じた感覚よりもリアルだった。

閉館時間がやってきた美術館を後にして、夕暮れ迫る上野公園をゆっくりと歩きながら僕は余韻を楽しんだ。そして適当なベンチに体を横たえて、生い茂る樹木の枝を仰ぎながら、ひとつ又ひとつと星の数が増えていくのを見ていた。

さて、今は2002年。時は静かに過ぎていつのまにか21世紀がやってきたけれども、星はあの頃と変わらずに瞬いている。考えてみれば太陽が生まれてから100億年、その太陽を回る地球が生まれて50億年、そして人類がその地球上に姿をあらわしてから200万年…。無限とも思われる宇宙の歴史を考えると、人類の歴史はほんの一瞬の瞬きなのかもしれないな、なんて思ったりもするのだけれど、それは決して悲観的な思いではない。逆に今生きているという時間の貴重さを感じるのだ。そう思うと、ちっぽけな縄文土器のかけらすらも、誰かが作りそして使っていたこと、いつしか土の中に埋まりながら長い年月を経て掘り出され現代人と対面することも、いとおしいことに感じる。そして青森県に新しく誕生することになる美術館は、偶然にも20世紀の終わりに発掘された三内丸山という縄文時代の集落跡に隣接して建つことになり、蓄積された膨大な時間を有する遺跡との関係性が充分に考慮されたものになるらしい。最近その設計者である青木淳氏とお会いする機会があって、設計図面を見たりしながらいろいろ話すことができた。建てられる場の持つ特性との関連だけでなく、展示室とその空間自体が必然的に抱え込む「建築空間として自立しながらも、展示されて成立しなければならない空間」という根本的な問いの答えが実際にどんなふうに眼前に開けるのか、楽しみにさせてくれる話だった。

日本の高度成長期から雨後の竹の子のように各地方に美術館が建てられ始めたけど、そのほとんどは作品が展示しにくい空間になっていて、展示構成する側にしてみたらかなりの苦労を強いられた気がする。絵や彫刻、作品と呼ばれるものは、いつか見たゴッホの絵のようにそれひとつでも、成立していなければいけないものなのだろうけど、美術館という入れ物があって展示室という箱があるのなら、その中に作品たち自体が相互に気持ちよく納まっているのが理想だろう。しかたなくそこに飾られるのではなく、そこにあることが作品たち自体をも活性化させていなければならない。遺跡を見て感じるリアリティは、発見された後でそう言い切るのはあまりにも当たり前すぎるかもしれないけども、そこにそういうふうにしてなければならなかったと言い切れるものたちが、そこにそういうふうにしてあったからだ。

たとえば、最近の遊園地は綿密に計算されて造られているから、園内を巡るコースをたどっていくだけで誰もが楽しめるようなっていて、しかしその分楽しみ方は画一化されてしまう。何もない原っぱで遊び走り回る時は、人の数だけそこにコースが生まれ、みんなが何日も遊ぶうちにそこが独特の遊園地に変わっていくのだろうけど、そこには個人の創造力が必要とされるだろう。遺跡に隣り合うようにして建つ美術館は、きっとその両者の長所がうまくミックスされたような展示空間を所有するものになるだろう。そして、その空間を想像し始めると僕自身の創造力も自ずと喚起されていくのだけど、それは美術館の開館に向けて準備している方々もそうだろうし、開館を待っている人々はきっとみんなそんな気持ちなんだろうと思う。

そして、やっぱりレストランには郷土色あふれるメニューが並んでたらいいなぁ・・・

なら・よしとも
1959年青森県弘前市生まれ。愛知県立芸術大学修士課程修了。1988年ドイツに渡り、ドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミーに入学。1993年に同アカデミーを修了後、ケルンで創作活動を続け、2000年に帰国。現在は日本に活動の拠点をおき、国内外で作品を発表している。青森県をはじめ、徳島県立近代美術館、サンフランシスコ近代美術館、ロサンゼルス現代美術館などに作品が収蔵されている。昨年から今年にかけて新作による個展「I DON’T MIND, IF YOU FORGET ME.」が横浜美術館を皮切りに芦屋市、広島市、旭川市と全国を巡回、今年の夏には弘前市を最終会場として開催される。