続く第二の展示室Cでは、初期ボックスアートの様式とプラモデルがどのような過程を経て誕生したのかについて紹介しています。
プラモデルとその箱絵のルーツは昭和初期に求められます。
昭和6年の満州事変を契機に、「戦争」をモチーフとしたビジュアルイメージが日本中に氾濫するようになりました。感情を込めた筆致で、流れる雲や高くうねる波などを描いたその劇的な描写は、戦争という現実を越え、現在の漫画やアニメ、ゲームに通じるような感覚で当時の子どもたちを空想の世界に誘い、興奮させていったのではないでしょうか。そして何よりも注目すべきは、そうしたイメージが雑誌や書籍、葉書等の複製物によって普及していったことです。
このコーナーでは当時大量に流通していた雑誌や絵葉書、ポスター等の資料をとおして昭和初期のビジュアルイメージを紹介し、小松崎茂らが手がけた初期ボックスアートと共通する要素を探っています。
一方、プラスチックという戦後になって登場した素材を用いる以前は、木製の模型が一般的でした。そして、その木製模型は学校教材として広く一般に浸透していました。太平洋戦争直前に発足した国民学校では昭和17年から模型飛行機が正式な教材として採用されています。科学の知識やものづくりの技術を、当時の子ども達はこうした木製模型をとおして養っていたのです。
○画像左:戦時中に流通していた絵葉書群
戦時中には多くの美術家が戦争をモチーフにした作品を制作していました。それは、美術家の判断というよりも、時代状況や社会の持っていた潜在的な欲求が表現として実体化したものと捉えるべきでしょう。この視覚イメージが、実際の作品をとおしてではなく、大量に生産できる絵葉書やポスターによって普及していたことにも注目してみてください。
しかし、こうしたイメージは戦後になって美術の表舞台からは跡形もなく消えてしまいます。そして、見る者の心をしっかりと捉え、様々な感情を呼び覚ます、そうしたイメージを受け継いだのは、プラモデルのボックスアートを代表とする大衆文化だったのです。
漠然と「美術」と「大衆文化」を分けて考える我々に、プラモデルのボックスアートは両者の関係性の問い直しを迫ります。いったい「美術」とは何なのでしょうか。
○画像中央:木製模型の数々
日本のプラモデルメーカーの多くが静岡市に本拠をおいていますが、その理由はもともと静岡市が木材の集積地で木工産業が盛んであったためです。またかつてプラモデルが学校の前の文房具店で売られていたり、社名に「教材」と付くメーカーが多いのも、もともと木製の飛行機模型が学校教材として活用されていたからです。
しかし、敗戦後の昭和20年にGHQ/SCAPは日本政府に対し、飛行機の運行や生産はもとより航空機の実験まで禁止する指令を出します。これを受け、木材加工業者たちもいったん模型飛行機の生産を中止して、本立てや状差などの学校工作用木製教材キットを開発していきました。やがて規制が緩和されると、各メーカーが飛行や船、戦車などの木製模型を数多く手がけるようになり、やがて新しい時代を象徴する素材としてプラスチックが用いられるようになった時、日本でプラモデルが誕生したのです。
○画像右:展示風景