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美術館堆肥化計画2022「成果展示」開催のお知らせ

2023年1月18日

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美術館堆肥化計画2022「成果展示」開催のお知らせ

美術館堆肥化計画2022「成果展示」開催のお知らせ

青森県立美術館では、県南地域各所との協働を通じて、ミュージアムの社会交流施設としての可能性をひらくアートプロジェクト「美術館堆肥化計画2022」に取り組んでいます。

 

この度本事業の成果展示をコレクション展「2022-4」内特別展示として開催します。「旅するケンビ」で展示した各地域ゆかりの生活資料をコレクション作品とのコラボレーションで紹介するほか、「耕すケンビ 県南編:囁きを編む」で参加アーティストらが制作した作品、オンライン勉強会「蓑虫山人とみる夢」に連動し県内に残る蓑虫山人作品などを組み合せて展示します。現代アートや生活資料、民間伝承など様々な事物が混在する本成果展示は、従来の美術館が作品を歴史化するべく、作品から切り捨ててきた曖昧性や親密さといった要素を拾い集め、あえてそれらを軸とし構成されることに特徴があります。そうして既存の芸術や美術館のあり方を足がかりとして、人が生きることを足元から更新させるような「術(アート)」が生まれる場所を展開できるかを問うものです。総じて本成果展示は、地域の過去を動力として未来を耕す役割を美術館に実装する、いうなれば追肥の機会となることでしょう。

 

コレクション展2022-4

特別展示「美術館堆肥化計画2022成果展示」

 

2023年2月4日(土)-4月16日(日)

[会  場]青森県立美術館展示室O,P,Q,M,L,J

[開館時間]9:30-17:00(入館は16:30まで)

[休  館  日]毎月第2、第4月曜日

[観  覧  料]コレクション展に準ずる

【O-1】アート・ユーザー・カンファレンス:‘そこ’は墓でなくもない

アート・ユーザー・カンファレンス(以下 AUC)は、アートに関わる人々が集まり、ユーザー(使い手)という立場から新たなアートの場の活性化に取り組むグループです。今回「美術館堆肥化計画 2022」成果展示では、AUC が昨秋、新郷村のキリストの墓伝承をリサーチしながら取り組んだプロジェクト「ジェネラル・ミュージアム|墓」の展開を紹介します。

 

「ジェネラル・ミュージアム」(以下 GM)とは、環境世界をジェネラル(総合的)にとらえる視座のもと「あらたな公共圏」としてのミュージアムを構想・実践する AUC のプロジェクトです。現実とインターネット上での展示やイベントなどの形で展開する GM は、2021 年「美術館堆肥化計画」参加以降、青森では県内に多く存在する遺跡や霊場の連想から特に「ジェネラル・ミュージアム|墓」(以下 GM 墓)と題され、墓という空間の再考を手がかりに、県内様々な場所で作品やミュージアムに由来する体験や感覚を現実空間に侵食させる取り組みを続けています。

 

今回の GM 墓では、新郷村での展開をもとにミュージアムや墓への独自の考察を示す解説パネル、おみくじや棺桶といった GM の作成物のほか、コレクション作品の輸送箱や壁面の白い塗料、窓からの日光といった美術館の環境条件に由来するものをも展示対象とする総合的な構成が成果展示として示されます。人工(作品や美術館)と自然の「きわ」を溶解させるような本展示は、ミュージアムを墓でなくもない場所-「生と死の中間状態」として読みかえ、収蔵庫に作品資料がしまい込まれたままの、いうなれば死蔵された状態を、展示という活性化された状態へと変容させるプロセスを示します。そうしてキリスト伝承に土着の山岳信仰、神道仏教が混ざりあう新郷村の文化的大らかさと反響し、私たちが自らの感覚を更新させ、生まれなおしを図るための場所を美術館に仮設することになりました。総じて本展示は神の存在や大文字の歴史を疑うことから出発した近代以降の世界を生きる私たちが、ミュージアムを基点に生きることを引き受けなおすための可能性に満ちた場所であり、批評家の C.ビショップが著書『ラディカル・ミュゼオロジー』で示した「複数の他なる未来」に通じる場所ともいえるのではないでしょうか。AUC 名に否定をあらわす接頭辞「an」がつくのは偶然ではありません。アートでないアート、墓でなくもないミュージアム。二重否定のすえGM 墓が示す‘そこ’は、(少なくとも美術館堆肥化計画が)目指すべき場所でもあります。

新郷村での「ジェネラル・ミュージアム|墓」の様子(2022-)

新郷村での「ジェネラル・ミュージアム|墓」の様子(2022-)

【O-2】三沢市ゆかりの歴史資料×美術館コレクション:波のまにまに

三沢市教育委員会が保管する三沢市ゆかりの歴史資料と美術館コレクション作品とのコラボレーションによる展示を紹介します。キーワードは「波のまにまに」。三沢市内特に沿岸部においては明治、昭和、平成と幾多の地震・津波被害に見舞われてきた土地です。

 

[明治三陸地震] 明治29年(1896)年6月15日午後7時頃、マグニチュード8.2の地震が発生。ほどなくして押し寄せた津波は三陸沿岸部に死者およそ22000名という未曽有の被害をもたらしたほか、三沢市内でも死者114名、行方不明者12名、重傷者10名という被害をもたらした。

[昭和三陸地震] 昭和8(1933)年3月3日午前3時頃、マグニチュード8.1の地震が発生。三陸沿岸に死者・行方不明者3064名、家屋被害5773棟という被害をもたらしたほか、このときの津波はやはり三沢市沿岸部に届き、市内で死者行方不明者26名、重軽傷者49名、流出・倒壊家屋100棟、流出・破損船舶53隻の被害が報告される。

[東日本大震災] 平成23(2011)年3月11日午後2時頃、マグニチュード9.0の地震が発生。この時発生した津波により福島第一原子力発電所では放射性物質が漏れる事故が発生し、現在もなお深刻な事態が続いている。死者・行方不明およそ19000名の甚大な被害をもたらした地震は三沢市内でも震度4を計測し、死者2名、けが人1名、被災家屋188棟の被害が報告される。

 

本州最北部の地震や津波被災地である三沢市では「地震 海鳴り ほら津浪」を合言葉に、「震災からの復興に並行して、震災の記憶を記録として残し、そして永く後世に伝えるため」(2011年当時の三沢市長・種市一正の言より)、早くから様々な取組みを行ってきました。昭和三陸津波の被害を伝える震嘯災記念碑の建立や、2011年9月11日から2012年3月11日まで開催された三沢市歴史民俗資料館での企画展「地震海鳴りほら津浪2011~三沢の漁業を襲った東日本大震災~」がそれにあたります。このコーナーでは津波被害を伝える震災当時のパンフレットや企画展の際に制作された記念碑(模型)を再展示するほか、波のまにまに営まれていた三沢での生活の痕跡としての野口貝塚出土の貝類や神棚、海につながる県内最大級の湖・小川原湖に伝わる伝説をモチーフとした小坂圭二による彫刻作品を紹介します。芸術が「アート」として曖昧模糊に拡張した今日においては、その不明瞭さを逆手に取り、過去の災害を引き継ぎ、不断に襲いかかる災厄に備えるための記録と記憶を伝える術もまた、アートとして指し示してみたいと思います。

三沢市歴史民俗資料館内展示「地震海鳴りほら津浪」の様子(2022)

三沢市歴史民俗資料館内展示「地震海鳴りほら津浪」の様子(2022)

【P】六ヶ所村での生活資料×美術館コレクション:忘れたことを忘れないで

六ヶ所村立郷土館が保管する村の生活資料と美術館コレクション作品とのコラボレーションによる展示を紹介します。 下北半島と県南地域の境に位置する六ヶ所村は、1889年に倉内村・平沼村・鷹架村・尾駮村・出戸村・泊村が合併してできた村です。縄文時代から生活が営まれ、戦後は満州や樺太での開拓に従事していた人々が村に移住し生活を営み、今も漁業や酪農が盛んな村です。そうした村の風景を一変させることになったきっかけの一つが、国の策定した「新全国総合開発計画」(1969)でした。県内では「むつ小川原開発」と称されたこの国家プロジェクトは、国・県・産業界が一体となって推進し、「総合的な産業基盤の整備」のため六ヶ所村から三沢市北部にいたる臨海部におよそ5,180㏊もの広大な土地を用立て、国家石油備蓄基地を皮切りに原子燃料サイクル施設をはじめとするエネルギー開発関連の諸施設を多く立地させるに至っています。

 

この巨大開発は村に豊かさをもたらしました。手軽に行ける温水プール、世界的音楽家がクラシック・コンサートを行う公共ホール。そして村の悲願であった公立高校。いずれも村にとっての大切な施設です。しかし開発用地確保のために買い取られた、かつて生活が営まれた土地は、今は柵で囲われ、施設関係者以外が立ち入ることは容易なことではありません。人々が村での生活を豊かなものにしたいと素朴に願うなかで、自らの生活履歴(歴史)を手放さざるを得ない状況には、遠く中央で推進される政治と、近い村での生活との一筋縄ではいかない関係のありようが浮かび上がってきます。1990年元旦あいさつとして「わが六ヶ所村の抱える大きな課題」は「この開発は誰のための開発であったのかを正しく見つめること」と述べた村長・土田浩氏の言は今も重く、私たちの胸に響いてきます。また「責任」を果たすべく村に残ってルバーブを植付け、今も持続可能な生活に取り組む村民・菊川慶子さんの姿から、私たちは何を受け取ることができるでしょうか。

 

「正しく見つめること」には至らないまでも地域にまつわる歴史の遠近を解きほぐし、地域の今を見つめなおすためミュージアムは何ができるのか。そうした問いに応える一つの実践として本展示は構成されます。かつての村を人と共に支えた馬にまつわる道具や遊具、堆肥をかき混ぜる棒、村役場の看板と「新全国総合開発計画」パンフレットの文章。楕円や矩形といった単純な図形要素の組合せにより人と馬の姿を描いた斎藤義重の《あほんだらめ》。ここでは、いまは忘れられた事物に立ち返り、歴史上の出来事と形を往還する中で、地域に根ざした政治と生活の様式を再設計する場の創出を試みています。

六ヶ所村立郷土館内の様子

六ヶ所村立郷土館内の様子

【Q】田附 勝:刻み込む土地

写真家・田附勝が今回「美術館堆肥化計画」参加にあたり注目したのは六ヶ所村でした。村の歴史や文化、自然を総合的に紹介する「六ヶ所村立郷土館」に知遇を得た田附は、1960年代末の大規模開発にともない出土した大量の縄文土器片から、郷土史家の二本柳正一氏が発掘し当時の新聞紙に包んで保存していたものを撮影し、シリーズ《KAKERA》の新作を制作。それらに現在の村の風景、戦後の開拓や集落移転を偲ぶ石碑とその文字等を撮影した写真を加え、郷土館の常設展示と土器片が保管される地下空間を会場に写真展示『刻み込む土地』を行いました。ここでは田附が村での『刻み込む土地』展示写真の一部を新たに現像・額装した写真、展示で使用した写真、郷土館で新たに見出した今につながる生活資料、村民である目代健三氏が開発以前の村の様子を撮影した写真を組み合せて構成した展示を紹介します。

 

今日まで開発にさらされ、そうなることで自らの歴史を埋却し続けることを余儀なくされる六ヶ所村においては、その内部から自らの歴史を語りなおし続けることが重要です。それはいかになされるべきか。美術史家のジョルジュ・ディディ=ユベルマンは「歴史家」すなわち歴史の書き手語り手に必要な知のあり方についてこう述べます-「自らの時間モデルを複雑化し、多様な記憶の厚みを横断し、異質な時間の糸を練り直し、別々のテンポをもったリズムを再構成すること」。こうした知のあり方は歴史家のみに必要なものではありません。こと六ヶ所村においては生活実践として応用されるべきものであり、村のよりよい未来を拓くうえで必要なものに思えてなりません。田附による本成果展示は、そんなユベルマン流の歴史家の態度を横目にしつつ、村を覆う不可視の歴史のあり方と、そうした中で地下茎のごとく村を支えてきた生活の記憶との「きわ」を見るための糸口といえそうです。

 

田附の写真は、ぬらぬらと底光りするような黒と赤が見る人に強い印象を与えます。それをここでは引き裂かれた政治と生活の間にぽっかりと開いた、傷口の形象と捉えてみましょう。田附は印画紙と空間上に現像したこの傷口でもって、私たちが自らの過去すなわち足元の歴史を、血の通ったものとして語りなおすことは可能かを問うているのではないでしょうか。少なくとも、土地に刻み込まれたこの傷は、村のみが負うべきものでないのは確かです。この傷は、私たち一人ひとりのものとして皆で治癒の仕方を探るべきものです。

安田講堂残し占拠排除 1969(昭和44)年1月19日 東奥日報(撮影:2022年5月18日 青森県六ケ所村)

安田講堂残し占拠排除 1969(昭和44)年1月19日 東奥日報(撮影:2022年5月18日 青森県六ケ所村)

【M】小田 香:ホモ・モビリタス

フィルムメーカー/アーティストの小田香は、昨年に続き「美術館堆肥化計画」に参加するにあたり、自らも県内地域を行き交う人々の足跡をたどるような旅を経験することから始めました。その中で小田は東北にも長く滞在した明治期の旅人・蓑虫山人の県内での足跡をたどったほか、戊辰戦争に敗れ福島から県内に移住した会津藩の人々の過酷な旅、そんな会津の人々が興した斗南藩の重臣にして県内三沢に日本初の西洋式牧場を拓いた広沢安任の蓑虫山人との交流について知るところとなりました。そんな青森に集い、生きた人々の軌跡と交わるようにして、今回の映像作品《ホモ・モビリタス》は制作されています。

 

3つの映像からなる《ホモ・モビリタス》は、現在の県南地域を走る青い森鉄道の車窓風景を撮影したものです。一つは青森から八戸方面へ向かう鉄道の車窓風景をデジタルビデオカメラで撮影した映像に直接ペイントを施した8ミリフィルムの映像を組み合わせ、ギターの音を重ねあわせて制作されました。そのほかの映像は八戸から青森への車窓風景を撮影しています。今回の成果展示では本作を、蓑虫山人が県内で見聞きした古器珍物を描いた作品や三沢ゆかりの歴史資料と併置して紹介します。 フィルムだからこそ可能な直接の描画、ひっかくようにしてエモーショナルに奏でられるギターの音色は見る人の記憶の襞を震わせ、過去が蘇るような感覚を抱かせます。小田の目と手、耳がとらえたイメージ世界は、小田個人のものであり私たちがかつて見てきた景色のようでもある。本作に滲む、小田と私たちとの不思議に静かでやさしい共在の感覚。小田が車窓にまなざすのは、異なる時間と空間を巻き込みながら未来を紡ぐ意志の連なり、いうなればホモ・モビリタス(移動するヒト)としての私たち自身の姿です。五感(感覚)の形成を「全世界史の一つの労作」ととらえたのはK.マルクスですが、本作は、そんな歴史のはじまりに立ち返り、一人一人異なる私たちが共に生き、歴史を自ら拓くための糸口でもあると信じてみたい気がします。

 

展示室をめぐってみましょう。今からおよそ100年前、博物館のような場所をつくろうと奔走していた蓑虫山人が県内は蟹田で見た彗星の尻尾が鉄道の運行、小田のまなざしと描画の線、私たちの生きた/生きる軌跡とつながっていないと誰が言いきることができるでしょうか。

小田香《ホモ・モビリタス》展示風景 会場=斗南藩記念観光村内「開墾村」(2022)

小田香《ホモ・モビリタス》展示風景 会場=斗南藩記念観光村内「開墾村」(2022)

【L,J】蓑虫山人:「陸奥庵」の夢

ここでは幕末明治の絵師、考古学者、造園家、そして何より旅人であった蓑虫山人が残した作品や、蓑虫山人ゆかりの県人資料の紹介を通じて、彼が県下で構想したミュージアムのような場所-「陸奥庵」を見る人の想像の中で辿っていただきます。 自作の笈(折りたたみ式の小屋)を背負ったミノムシを連想させる姿で、九州から北東北までを旅した蓑虫山人。そんな彼は明治11~20(1878~1887)年にかけて県内に滞在し、下北半島から津軽まで様々な人を訪ねては古器珍物を実見し、各地の風景を訪ねて回りました。そうして土地の人と同じものをみて交流を楽しんだ蓑虫山人が県内に残した作品の数々。目にした土器石器を組み合せ、草花を活けたり茶器にしたりと自分なりの楽しみ方を示した描画《陸奥全国古陶之図/陸奥全国神代石之図》。モノや風景との出会いの日々を素朴かつ実直、時にユーモラスに記録した絵日記《写画》等々。それらは蓑虫山人が夢みた場所につながるものです。夢とは何か。それは全国を66の地域に分け、各地の考古遺物や珍品名品を陳列する場所-「六十六庵」をつくることでした。その中の一つとして、青森の事物を紹介する場所が「陸奥庵」です。

 

志半ばで世を去った蓑虫山人が、彼の「陸奥庵」にどのような作品資料を収集し展示しようとしたかは詳らかにされていません。記憶と記録の間で明確な輪郭を失った陸奥庵は、歴史の闇に埋もれたままなのでしょうか。否!陸奥庵の解像度の低さは、ミュージアムの可能性として読みかえられ、積極的に継がれていくべきです。蓑虫山人が人やモノとの交流をもと、地域の過去と現在とを行き来しながら追い求めた陸奥庵の夢。その夢には人が皆歴史に遊び、楽しみながら「今ここ」を生きるための知恵を共有する場所としてのミュージアムの可能性がひそんでいる。それはVUCA(先行きが不透明で予測困難な状態)と呼ばれる今日にあって、ミュージアムことに美術館の活動を芸術史のみに自閉させることから解放し、生きることの連なりの中でしなやかに位置づけなおすことにつながるのではないでしょうか。

 

個人の発意ないし作品制作を、生活と芸術を総合的にとらえたところに生まれるエネルギーとして捉え、そんなエネルギーを見る人すべてが受けとり、自らの生活に影響させられるような場所、そんな堆肥のような働きをミュージアムが自覚をもって設計すること。そのような切り口のもと県立美術館がこれからも活動することを提案し、2022年度の美術館堆肥化計画成果展示の締めとしたいと思います。

 

[L.J展示協力]

工藤禮子、望月昭秀、太田原慶子、広瀬有紀、上條信彦

青森県立郷土館、弘前市立博物館、弘前大学北日本考古学センター、三沢市先人記念館

#土器で茶会 #生きざまを展示する (蓑虫山人《写画》をSNSハッシュタグを用いて解説する試み)  原本所蔵:工藤禮子

#土器で茶会 #生きざまを展示する (蓑虫山人《写画》をSNSハッシュタグを用いて解説する試み)  原本所蔵:工藤禮子