斎藤義重 -「もの」、その存在をめぐる考察、
工藤哲巳回顧展関連企画 - 父・工藤正義 ほか


展示室O、P、Q、M、K、I|特集展示1 斎藤義重-「もの」、その存在をめぐる考察

絵画や彫刻といったジャンル分けを超えた独自の表現を追求した斎藤義重(1904-2001)。
1960年代から電気ドリルを使って合板に線を刻むことで「物質性」を強く感じさせる連作を発表、やがて空間を志向するかのように平面からレリーフへと展開、1970年代末からは空間そのものを取り込んだ立体作品へと移行していきました。1973年に戦災で焼失した作品の再制作を行った斎藤は、その過程で自身の造形が三次元の空間へと展開するものであることを認識し、壁かけの「絵画」から脱していったのです。
今回の展示では、個人が所蔵する作品によって、そうした斎藤の芸術的特質を探ります。スプルース材、黒板塗料、合成樹脂といった素材を用いつつ、素材の持つ意味を剥奪したり、転倒させたりしながら、見る者に抽象的思考を喚起する斎藤の作品。晩年の立体作品では特に、「木」の素材感が打ち消された板が多様に重なり、また複雑に構成されることで、板と板との緊張感ある関係、そして板と空間との豊かな関わりが追求されています。何を示し、何を意味するかではなく、純粋なる「もの」として存在するこれら作品は、受け手に思考と解釈を要求します。ただし、そこに何らかの「正解」がある訳ではありません。作品をきっかけとして、それぞれの思索や感性を深化させていくこと。何よりも「分かりやすさ」が優先される現代において、斎藤が残した作品群は一層重要な意味を持ちはじめているのではないでしょうか。

斎藤義重(さいとう・よししげ)

1904年青森県弘前市に生まれる。1930年ロシア構成主義やダダの影響を受け、立体作品を中心とした造形活動を展開していく。1933~35年 アヴァンガルド洋画研究所に所属、美術の他、小説の執筆も試みる。1936年二科展に初入選。1938年二科「九室会」の結成に際し、会員として参加。合板レリーフの連作を手がける。1939年美術文化協会の創立同人となる。1945年自宅アパートが空襲で焼失、作品、家財のほとんどを失う。1954年千葉県浦安に仮寓。制作から遠ざかる。1958年瀧口修造の紹介により、東京画廊で個展を開催。高い評価を受け、制作活動も再開。1959年「第5回サンパウロ・ビエンナーレ」に出品。1960年「第30回ヴェネツィア・ビエンナーレ」、「第3回グッゲンハイム国際美術展」に出品。1961年横浜に移転。「第6回サンパウロ・ビエンナーレ」に出品し、国際絵画賞を受賞。1964年多摩美術大学教授となる。斎藤の講義を受けた学生の中から「もの派」の俊英が育つ。「第32回ヴェネツィア・ビエンナーレ」に出品。1965年ニューヨークに半年間滞在する(~翌年まで)。1978年「斎藤義重展」(東京国立美術館)開催。1982年「東京芸術専門学校」を設立。1984年「斎藤義重展」(東京都美術館他)開催。1985年「第18回サンパウロ・ビエンナーレ」に出品。同年「昭和59年度朝日賞」受賞。1993年「斎藤義重による斎藤義重展 時空の木」(横浜美術館他)開催。1999年「斎藤義重展」(神奈川県立近代美術館)開催。2001年6月13日、死去。


斎藤義重 常設展示風景

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展示室H|特集展示2 工藤哲巳回顧展関連企画-父・工藤正義

工藤哲巳の父、工藤正義(1906-1945)もまたすぐれた画家でした。東京美術学校に学び、小磯良平の知遇を得、兵庫県で教師をつとめますが,帰郷して1943年より青森師範学校の教授となりました。新制作派協会に所属し、のびやかな筆致で描かれたモダンな画風の作品を残し、当時の青森県の美術界に新風を吹き込みましたが、生徒をつれて川崎へ学徒動員に付き添っていった際に倒れ、喀血して終戦後すぐ亡くなってしまいます。哲巳はエッセイ「私の好きな一点」(『現代の眼』362号、東京国立近代美術館,1985)で、父が母に残した最後の言葉が「息子を…」であり、それ以来,哲巳は画家・美術教師であった母から熱心な美術教育をうけたと述べています。母の没後、両親の「執念」をつよく感じた哲巳は父の遺作をあつめ、1984年、弘前市立博物館で父の遺作展を開催しました。前述のエッセイで哲巳は「…父が最後に残した言葉が源になって、余韻の波動が持続している事に思い至る。/延々と連なる余韻の連鎖の中を突き進む私は一体、粒子なのか?音波なのか?TOKYOのインテリがよく使うアイデンティティーという単語等はしらけてしまう。」と書いています。
インポ哲学から晩年の遺伝染色体をモチーフにした作品にいたるまで、工藤哲巳の思想の核には親から子へとつながる生命の連鎖、記憶の連鎖の中で人間の自由はあるのか、自己の存在意義はどこにあるのかといった問いがあるように思われます。両親とその「執念」との対峙は,工藤哲巳にとって大きなテーマの一つでもありました。このコーナーでは、上述のような経緯をへて工藤哲巳が遺作展を開催し、弘前市立博物館に寄贈した父、工藤正義の作品を展示します。また、あわせて工藤の晩年,津軽をタイトルにした作品と、のちに津軽塗のイメージが無意識のうちにあらわれたのではないかと自ら述べた初期のスタイルの作品を展示します。
父子で作風は大きくことなりますが、工藤哲巳がこだわり、対峙した父の作品を御覧いただき、あらためて哲巳の活動について考えていただくきっかけとなればと思います。

工藤正義(くどう・まさよし)

1906年青森県北津軽郡長橋村(現五所川原市)に生まれる。青森師範学校を卒業し小学校教員となるが、1927年に上京、東京美術学校入学。在学中より太平洋画会、光風会、白日会等に入選。1930年より兵庫県加古川市で中学校教諭となる。1936年、第1回新制作派協会展入選。1942年帰郷し、翌年より青森師範学校教授となる。また同年新制作派協会会友となるが、戦時中に病を患い、1945年死去。1984年「工藤正義遺作展」(弘前市立博物館)開催。


工藤正義《姉弟》
制作年不詳、キャンバス・油彩、45.5×33.2㎝
弘前市立博物館蔵

工藤正義《淑子像》
制作年不詳、キャンバス・油彩、65.3×53.4㎝
弘前市立博物館蔵

工藤正義《毛皮の自画像》
1943年頃、キャンバス・油彩、45.5×38.2㎝
弘前市立博物館蔵

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棟方志功展示室、展示室N|棟方の色彩-油絵、板画の白と黒、裏彩色

1933年頃のある冬の日、棟方志功(1903-1975)は同郷の仲間とともに伊豆大島へと遊び、南国のような島で写生をしたり宴会をしたりして楽しく過ごしました。当初目指していた油絵画家から板画家へと転向し始めたこの時期、大島での開放的な日々を経て画業に大きな見通しができたといいます。「わたくしは、これからは、油絵は原色で混りっ気のないものを描こう、板画では、黒と白を生かしてゆこう」と決意し、以後、油絵でなければ表せない色彩、板画でなければ表現できない白と黒の美を追求してゆきます。
板画では、「白と黒を生かすためには、自分のからだに墨をたっぷり含ませて、紙の上をごろごろ転げまわって生み出すような、からだごとぶつけてゆく板画をつくってゆくほかはない」と、思いを新たにした棟方は、《二菩薩釈迦十大弟子》をはじめ、それまでの板画の常識を打ち破る数々の大作を生み出しました。
墨一色で摺られた白黒板画こそが板画の基本と考えていた棟方ですが、裏彩色を施した《宇宙頌》が1956年ヴェネツィア・ビエンナーレで高い評価を得たのを機に、後年彩色板画も多く手掛けるようになりました。紙の裏から絵筆で絵の具をさす裏彩色の技法は、手軽にできるうえに、やわらかな色合いを出せるため、好んで使用していました。
色鮮やかな色彩で描かれた油絵、幻想的な白と黒の墨摺り板画、そして華やかな彩色板画。棟方の様々な色彩をご覧ください。

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通年展示

展示室F|奈良美智 インスタレーション『A to Z Memorial Dogマスター型』『ニュー・ソウルハウス』

国内外で活躍する青森県出身の美術作家・奈良美智(1959- )は、挑むような目つきの女の子の絵や、ユーモラスでありながらどこか哀しげな犬の立体作品などで、これまで若い世代を中心に、多くの人の心をとらえてきました。
青森県立美術館では、開館前の1998年から、絵画やドローイングなど、奈良美智作品の収集を始めました。現在、160点を超えるそのコレクションの多くは、1988年から2000年まで、奈良が滞在したドイツで制作されたものです。
この展示室では、創作ユニット・grafとのコラボレーションにより、2006年に制作した小屋の作品の一つ、《ニュー・ソウルハウス》を中心に、当館のコレクションや作家からの寄託作品を展示しています。

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アレコホール|マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の背景画

青森県は1994年に、20世紀を代表する画家、マルク・シャガール (1887-1985) が制作した全4幕から成るバレエ「アレコ」の舞台背景画中、第1幕、第2幕、第4幕を収集しました。
ユダヤ人のシャガールは1941年、ナチの迫害から逃れるためにアメリカへ亡命します。バレエ「アレコ」の舞台美術は、画家がこの新大陸の地で手がけた初の大仕事でした。
1942年に初演をむかえたバレエ「アレコ」の振付を担当したのは、ロシア人ダンサーで、バレエ・リュスで活躍したレオニード・マシーン。音楽には、ピョートル・チャイコフスキーによるイ短調ピアノ三重奏曲をオーケストラ用に編曲したものが用いられ、ストーリーはアレクサンドル・プーシキンの叙情詩『ジプシー』を原作としていました。
シャガールは祖国ロシアの文化の粋を結集したこの企画に夢中になり、たくましい想像力と類いまれな色彩感覚によって、魅力あふれる舞台に仕上げたのです。

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