会期:2012年7月14日(土) - 10月3日(水)

展示の見どころ

「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」に登場するヒーロー、怪獣、宇宙人をデザインしたことで知られる青森県出身の彫刻家成田亨(1929-2002)。今年はちょうど没後10年の節目の年にあたりますが、今回の常設展では、青森県立美術館が収蔵する怪獣デザイン原画を過去最大規模で紹介するとともに、新制作展に出品された初期の貴重な彫刻作品や「悲劇」をテーマにした油彩画、「ウルトラ」シリーズや「マイティジャック」をモチーフにした絵画、そしてライフワークであった日本のモンスターのイラスト、さらには「突撃ヒューマン」等の貴重な資料までを一堂に展示する特集展示を開催します。
また、企画展「Art and Air~空と飛行機をめぐる、芸術と科学の物語」の関連企画として、寺山修司の市街劇「人力飛行機ソロモン」の資料や澤田教一の報道写真を紹介する他、シャガールによるバレエ「アレコ」の舞台背景画3幕や、棟方志功、奈良美智など当館のコレクションを展示します。
※ただし、9月22日より次回企画展「奈良美智:君や 僕に ちょっと似ている」展の準備のため、奈良美智、寺山修司展示室を閉鎖します。あらかじめご了承ください。




各展示室紹介


棟方志功展示室|女人讃歌

由に天空を舞う天女や、どっしりと存在感のある豊満な女性など、棟方志功(1903-1975)は様々な女人図を描きました。それらの多くは額に星をつけた姿で描かれています。
「裸體(はだか)の、マッパダカの顔の額の上に丸い星をつければ、もう立派な佛様になって仕舞うんだから、ありがたく、恭(かたじ)けない」と、棟方は語り、しばしば女性を仏の姿に描き表しました。棟方にとって女性は、慈悲深い仏にも似た存在であったのでしょう。額の星(白毫)ひとつで、仏のようにも生身の人間のようにもみえる、神秘的な女人像は棟方が最も得意としたテーマでした。
昭和30年代後半からは、女性の顔だけを大きく表した円窓大首絵とよばれるスタイルの美人画も多く描きました。ふくよかな顔に大きな切れ長の目をした棟方独特の美人画には慈愛あふれる母のイメージも投影されています。

今回の展示では、女性を讃美した岡本かの子の詩をもとに制作した《女人観世音板画巻》(1949年)をはじめ、谷崎潤一郎の小説の挿絵として制作した《瘋癲老人日記板画柵屏風》(1962年)、津軽民謡の世界を女性の姿で表した《砂山の柵》(1964年)などの板画作品や、《円窓薔薇妃図》(1971年)などの倭画作品を紹介します。様々な主題がこめられた棟方の女人図をご覧ください。

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展示室P、Q、N|没後10年特集展示 成田亨

成田亨は神戸市に生まれ、直後に青森県へ移りました。旧制青森中学(現青森高等学校)在学中に画家・阿部合成と出会い、絵を描く技術よりも「本質的な感動」を大切にする考え方を、さらに彫刻家の小坂圭二から対象物の構造や組み立て方、ムーブマンを重視する方法論を学んだ後、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)西洋画科へと進学。当初は油彩画を専攻していましたが、「地面から立ち上がるようなデッサンを求める」(成田)ため3年次に彫刻科へ転科。具象性を維持しつつもフォルムを自在に変容させ、動的かつ緊張感ある構成を作り上げていくという成田芸術の基礎がここで形づくられていきました。

武蔵野美術学校研究科に在籍していた1954年、成田は人手の足りなかった「ゴジラ」の製作に参加、そこで円谷英二と出会い、以降特撮美術の仕事も数多く手がけるようになります。

1965年、東宝撮影所で円谷英二と再会し、「怪獣のデザインはすべて自分がやる」という条件のもと「ウルトラQ」の2クールから制作に参加、以降「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」までのシリーズに登場するヒーロー、怪獣、宇宙人、メカニック等のデザインを手がけます。放映に際し、「これまでにないヒーローの形を」という脚本家・金城哲夫の依頼を受けた成田は、プラトンの「カオス(混沌)とコスモス(秩序)」という考え方を導入、ウルトラマンのデザインではギリシャ彫刻に見られるアルカイックスマイルやギリシャ哲学のカノン(規範・典型)の概念を用いて単純化・純粋化を意図し、対する怪獣のデザインには変形や合成といった混沌の要素を盛り込んでいきます。

常に動物図鑑等の参考資料を携帯しながら、誰もが見覚えのある様々なモチーフを引用しつつ、そこから形のおもしろさや意外さを出していく手法により次々と名怪獣たちが生み出されていきました。

成田は、ウルトラシリーズ以降も、テレビでは「マイティジャック」や「突撃ヒューマン」、「円盤戦争バンキッド」など、映画では「新幹線大爆破」や「戦争と人間」、「この子を残して」、「トラック野郎」シリーズ、「麻雀放浪記」などを手がける一方で、個展を中心に油彩画や彫刻の作品次々に発表。また1990年には京都の大江山に巨大な《鬼のモニュメント》を制作するなど旺盛な活動を続けていきました。

新制作展への最後の出品となった《翼を持った人類の化石》(本展出品作)には、科学技術信仰や経済至上主義に対する痛烈な批判が込められていますが、後年の作品でも「悲劇」や「絶望」が繰り返しテーマとなっており、人体や空、雲、海といったモチーフをとおして様々な悲劇の物語が提示されています。こうした雲や海の描写は子供の頃に見て感動したという戦争記録画からの影響が指摘できますが、ジオラマやパノラマなどに端を発したその絵画様式が絵画、彫刻や特撮の仕事を含めて成田の芸術観や技法に与えた影響は大きいように思われます。

また、成田は芸術とサブカルチャーの狭間で終生苦悩を続けた作家ですが、そのジャンルの垣根を越えた活動はある意味で時代を先取りした行為だったと言えますし、現代の表現活動における重要なイメージの提供者のひとりが成田であることも間違いありません。「ウルトラの成田」という単純な理解を越え、成田の仕事とその活動の歩みをとおして我々は戦後文化の特質、そして表現の本質について今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。

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展示室M|澤田教一 安全への逃避

1965年9月6日、その日、米海兵隊は、ベトナムのクィニョンという川沿いの村で、掃討作戦を実行していた。ベトコン狙撃兵の発砲を受けた米軍が、ナパーム弾で空から村に攻撃を仕掛けようとした時、避難を呼びかけられた村人の一群が川へ飛び込んだ。対岸にいたカメラマン・澤田教一(1936-1970)は、着のみ着のまま必死に泳いでくる親子の姿を見逃さなかった。《安全への逃避》という名で「ワシントンポスト」をはじめ、数々の紙面を飾ったこの一枚の写真は、その年の第9回世界報道写真展のグランプリを、翌年には、ジャーナリズムの最も権威ある賞とされるピュリッツァー賞を与えられる。澤田がベトナムの戦場で本格的な取材を開始して、わずか二ヶ月ほどの内に撮った写真であった。

1936年、青森市寺町(現在の本町)に生まれた澤田は、青森高校を卒業後、三沢基地内の写真店で働きながら写真を学ぶ。1961年夏、プロのカメラマンを目指して上京。半年後、三沢時代に知り合った米軍将校の紹介でUPI通信社東京支局写真部に入社してからは、戦場カメラマンの道をまっしぐらに突き進む。

《安全への逃避》以後も澤田は、第10回世界報道写真展で第一位、第二位を受賞した、《泥まみれの死》(1966年)、《敵をつれて》(1966年)など、たて続けに傑作を生み出している。そして1970年3月にはクーデターの勃発で混乱を極めるカンボジアで取材を始める。同年の10月、UPIプノンペン支局長とともにプノンペン近郊に取材に出かけた澤田は、移動中にクメール・ルージュと思しき一群の銃弾に倒れる。34歳だった。

わずか五年ほどの報道カメラマンとしてのキャリアの中で、生命を危険にさらしながらカメラでもぎ取った戦場の過酷な現実。澤田の写真は、ベトナム戦争の真実をもっとも雄弁に語るイメージとして、世界中で高い評価を得ている。

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展示室G|寺山修司 人力飛行機ソロモン

1967年に横尾忠則、東由多加、九條映子らと「演劇実験室◎天井棧敷」を立ち上げた寺山修司(1935-1983)。天井棧敷が活動した1960後半~1970年代は、それまでの既成の文化に対抗する「アングラ」の動向が一気に広がりを見せた時代であり、唐十郎の「状況劇場」、鈴木忠志の「早稲田小劇場」、佐藤信の「黒テント」と並んでアングラ文化を牽引したのが天井棧敷でした。高度成長によって近代化が急速に進む一方、社会的な構造と人間の精神との間に様々な歪みが生じ、そうした近代資本主義社会の矛盾を告発するかのように権力や体制を批判、従来の価値観に見直しが迫られた時代相を反映した動向であったといえます。中でも寺山は読者や観客とのつながり、すなわち作品と社会とのつながりを強く意識していました。大衆の興味や関心をひきつける術に関しても寺山は群を抜いており、「有能なアジテーター」と称されたほどでした。芝居や実験映画では特にそれが顕著で、演劇、映画のあらゆる「約束事」が否定され、感情や欲望を刺激するイメージで覆い尽くされた寺山の斬新な作品は多くの人々を虜にしていきました。

そんな寺山は劇場を飛び出し、町中を虚構化する演劇を行う市街劇を発案します。1970年11月20日午後4時から新宿の町を舞台にした「人力飛行機ソロモン」が上演され、大きな反響を巻き起こしました。劇のラストシーンでノスタルジックな複葉機が登場、一人の男がその上で演説をはじめ、やがて飛行機は各国の国旗とともに焼き討たれます。肥大化する国家権力とそこからの逃避の象徴としての飛行機。

天井棧敷は続く1975年4月19日に30時間市街劇の「ノック」を上演。杉並区一帯をフィールドとし、私有地を含めた様々な場所で同時多発的に演劇を行う実験的な試みを行いましたが、住民からのクレームが多数寄せられ、警察が介入するスキャンダルとなりました。

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展示室F|奈良美智 インスタレーション

青森県弘前市出身の奈良美智(1959- )は、弘前市の高校を卒業後、東京と名古屋の大学で本格的に美術を学び、1980年代半ばから絵画や立体作品、ドローイングなど、精力的に発表を続けてきました。青森県立美術館は、1997年から奈良美智作品の収集をはじめ、現在その数は150点を越えます。

《Hula Hula Garden》と《ニュー・ソウルハウス》という2点のインスタレーション (空間設置作品) を中心に、奈良美智の世界をご紹介します。

そのほか、レストランやミュージアムショップの裏側に位置する野外のスペースで、奈良美智のコミッションワーク『八角堂』をご覧いただけます。八角堂のお堂の中に、《Shallow Puddles Ⅰ/浅い水たまり Ⅰ》 (2004年) と題された6点の皿場の絵がひっそりと収められています。礼拝堂を想わせる神秘的な空間をお楽しみ下さい。

※美術館本体の開館と同じ時間帯に、無料でご入場いただくことができます。

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アレコホール|マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の背景画

青森県は1994年に、20世紀を代表する画家、マルク・シャガール (1887-1985) が制作した全4幕から成るバレエ「アレコ」の舞台背景画中、第1幕、第2幕、第4幕を収集しました。

ユダヤ人のシャガールは1941年、ナチの迫害から逃れるためにアメリカへ亡命します。バレエ「アレコ」の舞台美術は、画家がこの新大陸の地で手がけた初の大仕事でした。

1942年に初演をむかえたバレエ「アレコ」の振付を担当したのは、ロシア人ダンサーで、バレエ・リュスで活躍したレオニード・マシーン。音楽には、ピョートル・チャイコフスキーによるイ短調ピアノ三重奏曲をオーケストラ用に編曲したものが用いられ、ストーリーはアレクサンドル・プーシキンの叙情詩『ジプシー』を原作としていました。

シャガールは祖国ロシアの文化の粋を結集したこの企画に夢中になり、たくましい想像力と類いまれな色彩感覚によって、魅力あふれる舞台に仕上げたのです。

作品名 制作年 材質技法 寸法 (cm)
『アレコ』第1幕 《月光のアレコとゼンフィラ》 1942年 綿布・テンペラ 887.8×1472.5
『アレコ』第2幕 《カーニヴァル》 1942年 綿布・テンペラ 883.5×1452.0
『アレコ』第4幕 《サンクトペテルブルクの幻想》 1942年 綿布・テンペラ 891.5×1472.5

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