TIGER TATEISHI : The Retrospective -Track ,Travel ,Trap ,Trance

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表現ジャンルを自在に横断しながら独創的な世界を展開したタイガー立石の大回顧展!


会期変更のお知らせ


本展覧会は、2021年9月5日まで開催を予定しておりましたが、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のための9月1日からの臨時休館に伴い、8月31日で終了いたします。
事前にウェブチケットをお買い求めいただいた方で会期中にご観覧いただけないお客様への代金払い戻しについては、個別にご連絡させていただいております。

絵画、陶彫、マンガ、絵本、イラストなどのジャンルを縦横無尽に横断しながら独創的な世界を展開した立石紘一、ことタイガー立石、こと立石大河亞(1941-98)。
1941年、九州・筑豊の伊田町(現・福岡県田川市)に生まれた立石は、大学進学のために上京。63年の「読売アンデパンダン」展でデビューし、翌年には中村宏(1932-)と「観光芸術研究所」を設立。時代や社会を象徴する人物やイメージなどを多彩に引用して描かれたその作品は、和製ポップ・アートのさきがけとして注目を集めました。65年からは漫画も描きはじめ、「タイガー立石」のペンネームで雑誌や新聞にナンセンス漫画の連載をもつまでになります。60年代末から多くの子どもたちが口にした「ニャロメ!」という言葉は赤塚不二夫(1935-2008)と交流があった立石の造語でした。

しかし、マンガ家として活動が多忙になった1969年3月に、立石は突如としてミラノへ移住。そこから延べ13年にわたるミラノ時代は、マンガからヒントを得たコマ割り絵画を精力的に制作する一方、デザイナーや建築家とのコラボレーションで数多くのイラストやデザイン、宣伝広告などを手がけていきました。

イラストレーターとしての活動が多忙になってきた立石は再び環境を変えるため1982年に帰国。85年から千葉・市原を拠点に活動します。90年以降は絵画や陶彫作品を「立石大河亞」、マンガや絵本を「タイガー立石」の名義で発表していきました。

立石の作品はどの時期のものであっても、さまざまなできごとや観念が地層のようにつみ重なっています。このため、「見る」だけではなく「読む」ことによって、作者がつくり出した世界だけでなく、わたしたちの思考の回路も多次元にひろがるかのようです。

立石は1998年4月に56歳という若さでこの世を去りましたが、生誕80年をむかえる今年、約200点の作品・資料によってその多彩な活動を振り返るのが本展です。「タイガー」をペンネームとした立石の「足跡」(トラック)を辿りながら、「観光」(トラベル)、「仕掛け」(トラップ)、「変容」(トランス)といった立石芸術の魅力に迫ります。

タイガー立石(立石紘一/立石大河亞)略歴

1941(昭和16)年12月20日福岡県田川市に生まれる(本名:立石紘一)
1963(昭和38)年 武蔵野美術短期大学芸能デザイン科卒業。「第15回読売アンデパンダン展」(東京都美術館)に出品。
1964(昭和39)年 初個展「立石紘一 積算文明展」(銀座サトウ画廊)開催。中村宏と「観光芸術研究所」設立。
1968(昭和43)年 タイガー立石に改名。この頃から漫画家として活動。
1969(昭和44)年 イタリア(ミラノ)に渡る。「コマ割り絵画」を発案。
1971 (昭和46)年 エットレ・ソットサスの知遇により、オリベッティ社で仕事を得る。
1982(昭和57)年 帰国。漫画作品集の刊行や絵本の出版、個展の開催など精力的に活動。
1990(平成2)年 立石大河亞に改名。
1994(平成6)年 初の回顧展「立石大河亞1963-1993 筑豊・ミラノ・東京、そして…」が郷里の田川市美術館(福岡)で開催される。
1998(平成10)年4月17日死去(享年56歳)。
1999(平成11)年 没後初の回顧展「メタモルフォーゼ・タイガー 立石大河亞と迷宮を歩く」(O美術館)、「立石大河亞展 THE ENDLESS TIGER」(田川市美術館)が開催される。



展示会概要

会期

2021年7月20日(火)~2021年 9月5日(日)2021年8月31日(火)

休館日

7月26日(月)、8月23日(月)

開館時間

9:30-17:00(入館は16:30まで)
※8月14日(土)、15日(日)、20日(金)、21日(土)はナイトミュージアム開催につき、9:30ー20:00(入館は19:30まで)となります。(コロナ渦等の状況により変更となる場合があります。)

観覧料

一般1,500円(1,300円)、高大生1,000円(800円)、中学生以下無料
※( )はWebチケット料金。
※Webチケットでご入場の際には特製チケット(デカチケ)をプレゼントいたします。
※心身に障がいのある方と付添者1名は無料となります。


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チケット販売

  • 総合案内窓口でのチケット購入
    窓口で当日券をお買い求めいただけます。
  • チケット販売サイト「GETTIIS(ゲッティーズ)」でのWEBチケットの購入
    (注)購入できる期間は6月9日から9月5日8月31日16:30までです。
    【チケット販売サイトURL】
    https://www.gettiis.jp/event/detail/100007/daitiger
    ※お支払いはクレジットカード(VISA、Master Card)決済のみとなります。
    ※ウェブチケットでの観覧料は、一般1,300円、高大生800円となります。
    ※別途手数料(165円/枚)がお客様負担となります。
    ※WEBチケットでご入場の際には特製チケット(デカチケ)をプレゼントいたします。
    ※入館時及び企画展示室に入場の際、手続き完了後に表示されるQRコードのご提示をお願いいたします。
    ※複数の人数分をご購入いただいた場合は、人数分のQRコードが購入者に発行されます。入場する時間が異なる場合は、お一人様にひとつずつQRコードをお渡しください。(スクリーンショットした画面を送ると便利です。)
    ※スムーズな入場のため、事前にQRコードをスクリーンショット等で画面保存しておくことをおすすめします。
    ※チケットご購入後のキャンセル・変更・払い戻しはできません。
    ※日時指定予約とは異なりますので、事前に購入いただいていても、混雑状況によりお待ちいただく場合がありますのでご了承ください。
    ※2番入口のみからの入館となります。
    ※検温/手指消毒後、総合案内でチケットを購入せず、エレベーターで地下2階へ降りてください。企画展の入場口でQRコードを機械に読み取らせてください。
    ※読み取り後レシートが発行されますので、お取りください。
    ※レシートを係員に見せ、特製チケット(デカチケ)と引換えてください。
    ※特製チケット(デカチケ)は再入場の際に必要ですので、お帰りまで保管してください。

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展示構成

1. プロローグ 田川 〜大地の記憶

立石紘一は1941年、福岡県田川市(当時・伊田町)に生まれた。
 立石が少年期を過ごした頃の筑豊は石炭に需要のあった最後の時期にあたり、田川にもまだ多くの娯楽が残っていた。劇場や映画館で大衆演劇や極彩色のディズニー映画を、神社の境内でサーカスや見世物を夢中で見ていた立石少年。図書館では美術全集を読破、田河水泡の「のらくろ」や杉浦茂のナンセンスギャグ漫画、手塚治虫のSF漫画などを愛読し、竪坑、巨大煙突、ボタ山、石炭を運ぶ蒸気機関車など炭鉱町独特の景色を眺めながら様々な空想にふける日々を送っていたという。すでに中学時代には画家か図案家か漫画家になることを決意し、高校時代は映画館のフィルム運びや看板絵描きを手伝うアルバイトも行っている。そして1961年に武蔵野美術短期大学デザイン科に入学するため、田川を離れて上京する。
 生涯を通じて特定の地域に固執することのなかった立石だが、多感な少年時代を過ごした田川の特異な風土とダイナミックな社会性、雑多な文化環境が表現者としての基礎を作り、その「大地の記憶」が創造力のひとつの源泉となっていたことは疑いないだろう。


  • 画像:展示イメージ
    《香春岳対サント・ビクトワール山》
    1992年
    田川市美術館蔵

2. 1961-1969年 虎は世界を駆けめぐる 〜絵画から漫画へ

立石は1961年に武蔵野美術短期大学デザイン科に入学。在学中は、文学や哲学書を貪り読み、映画も数多く見たという。63年3月ブリキのおもちゃや流木を貼り付けた《共同社会》を読売アンデパンダン展に出品し、注目を集める。64年1月ヤング・セブン展(南画廊)に自らの為の広告看板を連想させる《立石紘一のような》を出品し、以後立石は富士山、旭日をはじめとする雑多な通俗的イメージを具象的に描き、ナンセンスを基調とする独自のポップ・アート的世界を追求するようになる。
同年3月には約10歳年上の中村宏と観光芸術研究所を設立。オブジェやインスタレーションが中心の反芸術が隆盛を極めるなか、同研究所はあくまで絵画というジャンルにこだわり、その可能性を探求していった。66年、観光芸術研究所を解散した頃より立石は、自身の制作を美術作品から漫画へとシフトさせ、さらに自身の名前も立石紘一からタイガー立石へと変えた。立石は多くの雑誌で作品が掲載され、漫画家としての人気は高まり、収入も増えていったが、安住を拒絶するかのように、69年3月イタリア・ミラノへの移住を決行した。異郷の地に身を置き、全くの白紙の状態から再び絵を描き始めたのだった。


  • 画像:展示イメージ
    《立石紘一のような》
    1964年
    高松市美術館蔵
  • 画像:展示イメージ
    《明治百年》
    1965年
    青森県立美術館蔵

3. 1969-1982年 ミラノの虎

立石は1969年イタリアのミラノに渡った。ミラノでは早速、絵画に取り組み、漫画のコマ割りをそのまま絵画に描く作品を試みていく。こうしてナンセンスでありながら、時空間や形象の大胆な変容を物語にした「コマ割り絵画」が誕生し、色彩も過激なまでに豊穣さを極めていく。
ほどなくこれらの絵画は、当時の世界的画商アレクサンドル・イオラスの目にとまる。イオラスは立石の絵画を蒐集するようになり、各地にあったイオラス画廊で個展も開催された。
一方、立石の存在はイタリアの建築・デザイン界からも注目された。柔軟な思考を持つ建築家、デザイナーとして知られるエットレ・ソットサスの知遇を得て、オリベッティ社内のソットサス工業デザイン研究所で、1971年から数年間イラストレーションの仕事に従事した。1970年代末になると、アレッシィ社やファブリ社といった企業や出版社からのイラストレーションの仕事の依頼が増える。モチーフに即しつつも、そこに命を吹き込むかのように描かれたイラストレーションを見ていくと、立石の秀でた画力が伝わってくる。これらの仕事も立石に新たな視点を与え、1982年の帰国以降、制作の手掛かりになっていく。


  • 画像:展示イメージ
    《Wiper in Jungle》
    1975年
    courtesy of ANOMALY
  • 画像:展示イメージ
    《Green Monster》
    1976-77年
    田川市美術館蔵

4. インタールード 漫画と絵本の仕事

立石は少年だった頃、知人から譲り受けた、いわゆる「墨塗り教科書」の余白にパラパラ漫画を描いたり、『漫画少年』に投稿するなど、戦後多くの子どもたちがそうであったように、漫画に夢中だった。
本格的に漫画を描き始めたのは1965年頃からで、66年以降は漫画制作が中心となり、『週刊アサヒ芸能』や『少年サンデー』、『ボーイズ・ライフ』などで活躍し、68年には自費出版ながらも『Tiger Tateishi』を出版した。その作風は、アメリカの風刺漫画のようなサイレントの形式をとりつつ、日本漫画の手法を生かし独自のナンセンス世界を構築したものであった。
ミラノに移住してしばらくは漫画制作から遠ざかっていたようだが、70年代後半から再び漫画を手がけるようになり、その成果は1982年の帰国後に出版された『虎の巻』(工作舎)にまとめられている。それらの漫画は立石のあらゆる発想が「視覚的ショート・ショート」で表現されていて、立石の表現世界を理解する上で重要な作品と言えよう。
帰国後数年は、絵画制作と並行して漫画に関する仕事を盛んに行っていたが、初の絵本作品『とらのゆめ』が福音館書店より出版された1984年から晩年まで、絵本もほぼ1年に1作のペースで発表していく。
漫画、絵本、イラストレーション、絵画、立体に至るまで様々な表現活動を立石が同じ地平のものとしてとらえていた。立石と同じ目線でそれらの活動を通観してみると、広大な地平を支えている立石の多次元的な思考の連鎖が見えてくる。


  • 画像:展示イメージ
    「長城と日の出?」原画
    (『虎の巻 アララ仙人のおかしな世界』より)
    1982年
    courtesy of ANOMALY
  • 画像:展示イメージ
    「銀河帝国戦士勝ちぬきデスマッチ 13 KGBs vs. CIAs」原画
    (『月刊小説王』第15号より)
    1984年
    courtesy of ANOMALY
  • 画像:展示イメージ
    『とらのゆめ』より原画
    (『こどものとも』344号)
    1984年
    個人蔵
  • 画像:展示イメージ
    『顔の美術館』より原画
    (『月刊たくさんのふしぎ』106号)
    1994年
    個人蔵

5. 1982-1998年 再びの日本 ~こっちにタイガー、あっちに大河亞

延べ13年にわたるイタリア滞在を経て、立石は1982年2月から再び東京を拠点に創作活動を続けていった。84年頃までは漫画やイラストレーションなど出版媒体の仕事が続いたが、85年に以降は絵画の制作も本格的に再開する。
1987年の個展「月海観光展」(INAXギャラリー東京/大阪)では軸装や巻子装で仕立て、モチーフとその状況の変形・変容によって空間と時間の境界を消失させていくような不可思議な光景の作品を発表し、同時に60年代の「観光」というコンセプトも改めて押し出していく。続く1989年の個展(村松画廊)では、夫人の実家の屋根裏から発見された60年代の油彩作品を修復(一部再制作)して展示。本展をとおして立石の再評価が進む一方、立石にとっても再び「虎」、「富士」を描くきっかけとなっていく。90年には「タイガーのイメージの群れが河の流れとなり、やがて広い情報の海に船出する」という意図から「立石大河亞」と改名し(漫画や絵本では引き続き「タイガー立石」の名義を使用)、明治、大正、昭和という日本の近代を総括する大画面の三部作を発表。その後も富士や虎、螺旋の紐や電子基盤に見立てた雲などをアイコンとし、俯瞰的な構図のもとに、時空を越えて過去と未来を眺望していく観念的な風景画を構築していった。
立石は1991年から陶彫による立体作品も手がけるなど、旺盛な創作意欲のもと常に斬新でユニークな表現を探求し続けていくが、98年4月に56歳という若さでこの世を去った。


  • 画像:展示イメージ
    《昭和素敵大敵》
    1990年
    田川市美術館蔵
  • 画像:展示イメージ
    《富士のDNA》
    1992年
    courtesy of ANOMALY
  • 画像:展示イメージ
    《DE CHIRICO》
    1996年
    個人蔵(青森県立美術館寄託)
    撮影:二塚一徹

6. エピローグ 水の巻

《水の巻》は88年から90年にかけて水の文化情報誌『FRONT』に連載した作品を全6巻の絵巻物にまとめたもので、全長の合計が約54メートルにおよぶ壮大な作品である。鉛筆で繊細に描画され、ところどころに金箔が施されているこの作品は、水のモチーフを基調にしつつ、多種多様なイメージが綴られている。例えば、過去の自作や十八番の虎のモチーフ、ピカソの《ゲルニカ》のような歴史的名画、古今東西の風物、近未来のSF的な光景など、作者の脳裏に浮かんだあらゆるイメージが綿々と登場する。まさに森羅万象といってよい世界が、今にもアニメーションとして動き出すかのような、この画家特有の躍動感あふれる画力で描かれているのだ。
《水の巻》を通観していくと、自己の作品/他者の作品、過去/未来、西洋/東洋、ハイカルチャー/ローカルチャーといった区別は解消され、全てがシームレスに矛盾なく融合し、繋がっているのが分かる。描かれたイメージは完全に等価であり、そこに横断や越境という視点は感じられない。そもそも横断や越境とは、自己と他者、こちら側と向こう側、ハイ/ローといった差異やヒエラルキーを前提とした思考によって生まれてくる。しかしタイガー立石は、こういった思考を選択しない。
《水の巻》はタイガー立石が生涯の中で触れてきた世界を、まさに描きつくした大作であると同時に、こういった作者固有のラディカルな姿勢が鮮明にあらわれた作品と言えよう。


  • 画像:展示イメージ
    画像:展示イメージ
    画像:展示イメージ
    《水の巻》(部分)
    1992年
    豊田市美術館蔵

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お問合わせ

〒038-0021 青森市安田近野185
大・タイガー立石展青森実行委員会(青森県立美術館内)
TEL 017-783-3000 FAX 017-783-5244


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主催等

主催

大・タイガー立石展青森実行委員会(青森県立美術館、青森放送、青森県観光連盟)、読売新聞社、美術館連絡協議会 

協賛

ライオン、DNP大日本印刷、損保ジャパン

特別協力

ANOMALY

協力

青い森鉄道、JR東日本青森商業開発

後援

青森ケーブルテレビ、東奥日報社、デーリー東北新聞社、陸奥新報社、青森県教育委員会


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