阿部合成あべ ごうせい [1910–1972]

阿部合成は、1910(明治43)年、青森市(旧浪岡村)に生まれ、1923(大正12)年、旧制青森中学に入学。同級生に太宰治がいました。卒業後、1929(昭和4)年に京都絵画専門学校に入学し、日本画を専攻。1934(昭和9)年、卒業後青森に帰り、代用教員として野辺地小学校、ついで野辺地中学校で美術などを教えるかたわら、従兄弟の画家・常田健と結成したグレル家というグループで、ルネサンス期を中心にした西欧絵画や、メキシコの壁画運動などを研究、油彩画を描くようになります。
1935(昭和10)年に上京し、1938(昭和13)年、《見送る人々》(兵庫県立近代美術館蔵)を制作、同年二科展に入選。高く評価され、向井潤吉の《突撃》とともに雑誌『国際写真画報』に掲載されましたが、当時の駐アルゼンチン大使から「日本人とは思えない」と評されたことが契機となり、時流にそぐわない作家として団体展から嫌われ、画壇から距離を置くようになります。《田園》はこの頃の作品。
1943(昭和18)年の秋、3度目の招集で満州へ出征。敗戦後シベリアに抑留され、1947(昭和22)年1月に帰国。帰国後、シベリア抑留の過酷な体験、1948(昭和23)年の親友太宰のセンセーショナルな死や、生活上の様々な苦悩などのなかで、合成の作品は、戦前の堅固な素描と構成による作風から、鮮やかな色彩、速く力強い筆致による表現主義的と評される作風へと転換していきます。
1952(昭和27)年に再上京しますが、生活と制作の間で苦悩が深まっていくなか、1959(昭和34)年12月、日本での生活の束縛から離れるように、アメリカにわたり、メキシコに向かいます。日墨会館の一室に画室を提供され、精力的に制作し、翌年には、メキシコの国立のギャラリー、サロン・デ・ラ・プラスティカ・メヒカーナで個展を開催して1960(昭和35)年10月、帰国します。このメキシコ滞在時に、日本的な技法や題材、メキシコ壁画の技法や風俗などをとりいれた新たな画境を開いた合成は、帰国後国内各地で個展を開催。そして1963(昭和38)年に再婚した由利子夫人と共に再び渡墨して、翌年サロン・デ・ラ・プラスティカ・メヒカーナで二度目の個展を開催し好評を得、そのままヨーロッパを歴遊し帰国します。《自画像》は最初のメキシコ滞在時の作品です。
1964(昭和39)年冬、帰国後すぐに、親友の太宰治を記念する碑を委嘱され、翌年、金木芦野公園登仙岬に制作、設置しますが、この頃から死者の世界を見つめるような作品が増え、どくろやミイラ、死んだ子供などが、しばしばキリスト教的なテーマと組み合わされて表現される作品群が制作されるようになります。過酷な戦争体験を反映したような《マリヤ・声なき人々の群れ(A)》はその代表的な作品です。
1969(昭和44)年、入院し胃の手術を受け、1972(昭和47)年6月18日、癌により亡くなりました。その苛烈な生涯を美術評論家の針生一郎は「修羅の画家」と評し、この題の評伝を著しています。

田園

≪田園≫
1939(昭和14)年頃
油彩・板
60.9×72.6cm

自画像

≪自画像≫
1960(昭和35)年
油彩・板
120.2×64.4cm

マリヤ・声なき人々の群れ(A)

≪マリヤ・声なき人々の群れ(A)≫
1966(昭和41)年
油彩・合板
92.2×56.1cm