小野忠弘おの ただひろ [1913-2001]

小野忠弘は1913(大正2)年、青森県弘前市に生まれました。14歳上の兄に考古研究家の小野忠正が、10歳上の兄に考古学者で画家の小野忠明がいます。1933(昭和8)年、東京美術学校彫刻科に入学。在学中から鳥海青児のアトリエに出入りするようになり、油彩画を描くようになります。1938(昭和13)年の卒業後は徳島県立富岡中学校(現・徳島県立富岡西高等学校)に図画担当教員として赴任(その後教員としては、福井県立三国中学校や三国高等学校で勤務)。1950(昭和25)年の「第14回自由美術家協会展」に《エピゴーネン》出品、以後1959(昭和34)年まで定期的に出品。1953(昭和28)年、福井大学工学部非常勤講師に就任。1955(昭和30)年頃から詩人・宗左近との交流が始まります。1957(昭和32)年「今日の新人57年展」で斎藤義重とともに新人賞受賞。同年、ブリヂストン美術館でのミシェル・タピエ選「世界・現代芸術展」出品。1959(昭和34)年、「第5回サンパウロ・ビエンナーレ」に彫刻作品《かぐろい座》出品。
同年、「第4回現代日本美術展」に《アンチプロトン》出品。この頃から古物や漂流物、廃品などを画面に貼り込んで制作する「ジャンク・アート」の旗手として高い評価を受けるようになります。1960(昭和35)年、「第30回ヴェネチア・ビエンナーレ」に出品。荒川修作、建畠覚造、山口勝弘らとともに「集団現代彫刻」を結成します。1973(昭和48)年、福井県立三国高等学校を定年退職し、翌年ヨーロッパ旅行。また青森に久々に帰郷します。1979(昭和54)年、東京セントラル美術館で回顧展として「小野忠弘渦状星雲展」を開催。1985(昭和60)年、福井県立美術館で「小野忠弘展 -隕石・縄文・写楽の系譜-」を開催。1987(昭和62)年、福井大学工学部非常勤講師を退職し、翌年福井県丹生郡宮崎村に野外彫刻《マテリナズカレンダー》を制作。以降、公共空間におけるモニュメント的な作品の制作を多く手がけるようになります。
1993(平成5)年頃から最晩年まで続く「BLUE」シリーズが開始。ドリッピングの自由な線の軌跡が縦横に展開し、機械部品や漂流物をはじめとした様々な品々が組み合わされ、青と深い藍色の混在が神秘的な印象を与える本シリーズは、物質と作家精神が織りなす激情と精妙さを兼ね備えた宇宙論的絵画であり、作家晩年の傑作です。
小野は2001(平成13)年、福井にて亡くなりました。

ロマンツェロ

《ロマンツェロ》
1956(昭和31)年
ミクストメディア
92.0×92.5×4.0cm

タダの人

《タダの人》
1980(昭和55)年
油彩・キャンバス
130.0×97.0×4.0cm

BLUE

《BLUE》
1993(平成5)年
ミクストメデイア・キャンバス
112.1×193.9cm