日誌

A-ism vol.10

2005年3月1日

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A-ism vol.10

A-ism vol.10

美術館のシンボルマーク決定!

平成18年7月にオープン予定の青森県立美術館。
そのイメージを象徴するシンボルマークが決定しました。
デザインを担当したのは、菊地敦己氏。
デザイン集団「ブルーマーク」を率いて、雑誌のエディトリアルや企業のVI(ヴィジュアル・アイデンティティ)を数多く手がける気鋭のデザイナー菊地氏によるシンボルマークは、柔らかさの中にも力強い意思を感じさせてくれるものです。
またマーク単体だけでなく、パターンとしての展開やネオンサインへの応用など、様々な活用が可能な新しいシンボルマークの形です。
ここでは菊地さんによるデッサンやコンセプトを紹介し、シンボルマークが決定するまでのプロセスとその魅力をご紹介します。

青森県立美術館のVI計画

黒岩恭介(青森県美術館整備推進監)

VIとはビジュアル・アイデンティティー(Visual Identity)の略語です。普通は企業のブランドイメージを高めるために、企業のコンセプトを象徴的に表現したシンボルマークや企業名ロゴをデザインし、それらをあらゆる媒体を通して使用・展開して、企業イメージの集約化を図るものです。これからの時代、企業が生き残りをかけて取り組まねばならない重要な戦略として、このVIは位置づけられています。
さて、美術館もまた生き残りをかけて経営しなければならない時代を迎えています。そのため青森県立美術館はVI計画の一環として、今回美術館ロゴとシンボルマークを決定しました。これをポスターやチラシ、ホームページ、封筒などの事務用品、また種々の広告媒体に一貫して使用し、青森県立美術館のイメージを集約化し、その周知徹底を図ります。それにより、青森県立美術館の存在感を高めること、すなわち社会からその存在と価値を広く認識されるようになること、これがVI計画の大きな目的です。
ここに決定されたロゴやシンボルマークは青森県立美術館のアイデンティティー(個性や、らしさ)を象徴的にあらわしています。本州の極北に位置する青森県、木々が集合して青い森に成長するイメージ、そのシンプルで分かりやすいシンボルマークには、青森県の芸術文化環境も、自然環境と同じく継続的に成長・発展していってほしいという、デザイナー菊地敦己さんの思いが込められています。そしてこのシンボルマークは美術館本体にネオン管として設置され、美術館を訪れる人々をやさしく迎えることになるでしょう。また美術館建築の水平、垂直、45度からなる鉄骨構造体を彷彿とさせる設計を基本としたロゴタイプは、ダイナミックで安定した印象を形成しています。この設計による文字はロゴタイプにとどまらず、美術館内のすべてのサインに統一的に応用されます。その結果、建築空間と親和性を持った館内表示が分かりやすく展開されます。
ロゴタイプとシンボルマークのさまざまな組み合わせで、青森県立美術館の名前は世に出て行きます。またシンボルマークは、固定的、単一的に使用されるのではなく、使用する素材(封筒、包装紙、バッグ等)に応じてさまざまなパターンとして繰り広げられます。しかしその断片を眼にしても、青森県立美術館のマークであるという認識が得られるくらいに、このマークは浸透していくことでしょう。広くメディアを通じて使用、展開されるこれらのイメージは、それを眼にする人々の心の中に、青森県立美術館に対する信頼感、他の美術館とは一味違った活動に対する期待感などを意識的、無意識的に醸成するための効果的な手段となることを願っています。

esperanza エスペランサ 青森県立美術館に望む

第7回 菊地敦己(アートディレクター)

成長していく美術館そしてV.I.

本当のことを言ってしまうと、美術館やギャラリーに行って、手放しで「面白い!」と思える作品に出逢えることは滅多にありません。相当に有名な作品で も「意味が分からん」と思うことの方が多いです。特に僕は、若手の現代美術の作家を中心に見ることが多いので、なおさらだと思いますが。
それでも懲りずに、展覧会に足を運ぶのはなぜか。理由はいくつかありますが、一つは「良い作品」に出逢えたときの経験は、なにものにも代え難い体験であるということ。「感動」と言ってしまうとあまりにも陳腐ですが、ドキドキして踊りだしたくなるくらいの、身体的興奮を得られることがごく稀にあります。ディズニーランドより、ハリウッド映画より面白い。予定調和の興奮ではなくて、ただそこにある作品の存在の強さにやられてしまうのです。
もう一つは、色々な考え方と対峙することが目的です。「よく解らんな〜」と思うものも、作家がどんな状況で何を考えて創ったのかを考えながら、作家の思考を追体験していくと大きな発見があったり、腹が立ったり、作家の思考を鏡にして自分の考えがまとまったりします。他者の思考を体験すると、日常では使ってない脳の一部が揉みほぐされるような感覚があって、とても気持ちのよいものです。身体も使っていないと、うまく動かなくなったり持久力がなくなったりしますが、知的感受能力も一緒だなぁと思います。感性もエクササイズしてあげないと、どんどん硬化してしまう。まだ(もう?)僕は30歳ですが、それでも10代のときのような感受性は失われてしまって、油断するとゴリゴリと自分の中の基準で色々ものごとを独断的に判断してしまう、おじさん化が始まっているので、意識的なトレーニングの必要性を感じる今日このごろです。
さておき、芸術作品にそもそも面白さを求めるべきか?という疑問もあります。芸術というものは、それまでになかったものを創り出す、つまり新しい価値基軸を提出するメディアだと思うので、「簡単に面白いと思える作品なんて面白くない」という、逆説的な思いがあります。とくに若手(僕が若手というのも何なんですが)の作品は、同時代に生きる人間が新たな創造を模索した結果に生まれたもので、そに価値があるかどうかは、既存の判断基準では評価しきれないものです。そこで大切なことは、芸術家が排出した一つの答えに対して、我々観客がどう反応し、なにを考え、どのような評価をしていくかだと思うのです。環境が変化していく時間や人の目に触れていく過程を経て、芸術の価値は形づくられていくもので、美術館は作品がその洗礼を受ける場所でもあると思います。美術館の独自性や地域性は、収蔵作品や企画展示の内容だけで創られるものではなく、観客それぞれの対話によって創られるものだと思うのです。良い美術館とは、個人的には「生きた美術館」であると思っています。既に価値が決まった作品ばかりを集めた墓場ではなく、新たな、そしてその土地ならではの風土を吸収した価値体系を形成していける場所であろうと。

僕はアートディレクターという役割で、ブランディングという仕事をしています。具体的に言うと、「V.I.(ビジュアル・アイデンティティー)」つまりロゴマーク、ロゴ書体の設計やポスターや広告等のビジュアルイメージを作り、主体となる会社や団体、施設の独自性の形成を補助していく仕事です。これはなかなか難しい仕事で、ディレクターやデザイナーが一方的に「かっこいい」デザインを貼付けても、うまくいきません。ビジュアルイメージがどのように運用され、どんな人に受け取られるかが最終的なイメージに多大に影響していきます。つまり「ブランド」とは培われて育っていくものであって、はじめから出来上がっているものではないのです。言わば、子育てのようでもあって、生まれた時点である程度の資質はきまっていても、育っていく環境や周囲の人によって如何ようにも変わっていきます。

さて、前置きがずいぶんと長くなりましたが、青森県立美術館のV.I.を担当しています。どうぞ、よろしくお願いします。

この美術館のV.I.は、普通のやり方とはちょっと変わった方法をとっています。ロゴマークは、「木」と「a」(またはA)をモチーフにデザインしています。ただ、このマークは単体であまり意味を成しません。ある意味ではどこにでもありそうな「かたち」です。この図形をパターン(繰り返しの群れ)として展開して、美術館のシンボルとしていくという、方法をとっています。こう言って説明すると、わかりづらいですが、要するに「青い木が集まって森になる」というデザインです。美術館の活動が積もっていけばいくほど、木が増えて森が大きくなっていくというもの。
建築に設置されるサインも、館名を表札的に入口部に掲げるのではなく、ネオン管でつくられた30cmほどのマークが多数並んだ、パターンとして配置されます。建築と一体化してそのもの自体がアイデンティティーとなる設計です。加えて言えば、周囲の風景や光を含めた、総体的なビジュアルをアイデンティティーにしています。色彩は、空色と建築で用いられている土壁の色を基本色として採用して、周囲の環境との調和を計っています。言わば借景のような考え方で、マークの入る場所(それが建築であっても、紙媒体であっても)の環境にとけ込み、その媒体全体が独自のイメージを持つように創られています。伝えるべきは、ロゴのデザイン性や単なる名前ではなく、美術館全体の体験をイメージとして伝達していくことが大切だと考えているからです。

開館=完成ではなく、変化していくであろう環境や時間のなかで常に新たな価値体系を形成し、成長・変容し続けていくV.I.、そして美術館となり得ることを願っています。出来上がりがピカピカで、後は風化していくだけでは、ツマラナイですもんね。

学芸員エッセイ

青森なんて関係ないよ

立木祥一郎(学芸員)

映画監督の相米慎二は、1948年生まれ。『セーラー服と機関銃』を大ヒットさせ、『台風クラブ』(85年)で東京国際映画祭ヤング・シネマ大賞の受賞をはじめ、その独特の表現手法は内外で高く評価された。薬師丸ひろ子や、永瀬正敏、工藤夕貴、牧瀬里穂など「アイドルたち」を、徹底した演出で鍛え上げ「俳優」へと飛躍させることでも知られた。
1998年の作品『あ、春』が、秋田の十文字映画祭で上映された時、監督に5、6年ぶりにお目にかかった。私が美術館建設のために東京暮らしから、青森に移住したことも、ちゃんとお知らせしていなかった。緊張してご無沙汰の挨拶をと近づく私を見つけて、監督はいきなり「お、太ったな。」.である。(この映画の東京公開の舞台挨拶の時に、主演の斎藤由貴にもおなじことをいきなり言っていたので、笑ってしまったが。)「青森にいるんだってなあ。なんであんなとこにいるの。」「記念碑とか建てるんじゃないぞ。」ぼつぼつと話す。唖然としていると監督は、「ああ、青森の出身なんだよ。相米というとこのでなんだ。」ここには、まだ相米一族がいて時々いってるというような話をしたのが、監督とお目にかかった最後となった。キネマ旬報の日本映画監督辞典などをひっぱってみても、相米監督の出身地は盛岡、それから、北海道で育ったということしか書いていない。
ところで相米監督のフィルモグラフィーはちょっと変わっている。1980年『翔んだカップル』で監督デビューし、次々に監督作品を重ねながら、寺山修司の『草迷宮』という1983年の作品で助監督に戻った。ヒットを飛ばした気鋭の監督が、助監督にもどるというのは、不思議なことだ。実は『草迷宮』は、『アンダルシアの犬』のピエール・ブロンベルジュがプロデュースしたオムニバス映画の1篇として、1978年にフランスで公開された。その後、日本でロードショー公開されたのが1983年。相米監督は、同郷の寺山の助監督を務めてから、数年後に監督デビューをしたことになる。
たとえば『台風クラブ』で、ストーリーとは関係なく夜のアーケードに佇むオカリナ男など、初期の相米作品には時として寺山的な異形のキャラがでてくるのだ。こちらが訊てもいないのに、あまり青森の話ばかりするものだから、思い切って相米監督に寺山修司の助監をやったのと青森の関係について質問してみた。監督は一瞬考えてから、案の定、「青森なんて関係ないよ」と、はぐらかされてしまった。でも寺山修司という言葉で、相米監督の顔が、ぱっと明るくなったのがとても印象にのこっている。相米監督の代表作であり、青森県の大間で撮影された傑作『魚影の群れ』が公開されたのも1983年。
いま相米慎二は、故郷、田子町、相米の墓に眠っている。