日誌

A-ism vol.9

2004年3月1日

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A-ism vol.9

A-ism vol.9

アートプロジェクト こども−おとなコネクション!!

青森県立美術館は、コレクションを展示する常設展や、テーマにそって作品を借用して展覧会を構成する企画展に加えて、美術館展示室に場所を限定せず、街の中や、地域の産業、福祉との協働など、さまざまな形で闊達に展開するアートプロジェクトに焦点をあてて活動していきます。すでに「キッズ・アートワールド」や、「アートツアー・インあおもり」というアートプロジェクトを展開しています。去年夏、子どもから大人へと愛され続ける成田亨の生んだ怪獣をひとつの手がかりに、むつ市や七戸町、青森市の国際芸術センター青森などと連携し、2つのプロジェクトの企画連動を試みました。この特集ではアートプロジェクトの現場ではなに考え、活動したのかを検証いたします。

アートプロジェクトの展開

黒岩恭介(青森県美術館整備推進監)

青森県立美術館(仮称)は2006年7月に開館する。開館以後の本格的美術館活動の前に、われわれは美術館建設の期待感を醸成するために、またハードにとらわれないソフトとしての美術館を前もって実現するために、「キッズ・アートワールドあおもり」と「アートツアー・イン青森」の二つのプレ事業を開催してきた。こどもたちを対象にした「キッズ」は過去4年間にわたって、コレクションを中核として企画した「アートツアー」は過去2年間にわたって、県内さまざまな地域で展開された。
今年度の二つの事業を通観してわかるように、両者ともいわゆる狭い意味での美術に、その活動を限定していない。またすでに述べたように、県内のさまざまな地域と協力連携して開催するものでもあった。この二つの要素は来るべき青森県立美術館の方向性をよく示すものである。つまり青森県立美術館の活動は芸術文化全般を射程に置く。美術作品の研究・収蔵・展示・保管といういわゆる美術館活動の基本はしっかり押さえながら、それだけにとどまらず、演劇や音楽、映画や舞踏など、分野横断的な活動や実験的な動きを持続的にまた活発に行う。そしてその開催場所も美術館内にとどまるものでなく、積極的に地域に出て行き、その地域の組織あるいは個人とネットワークを築いていく。その結果、地域からの美術館へのフィードバックを可能にし、美術館はいろいろな意味で開かれた存在となる。
このような活動をわれわれはアート・プロジェクトと呼ぶ。地域の可能性を引き出しながら、また地域から触発されて、われわれの美術館は成長していく。例えば今回のアートツアーに見られるように七戸町の「山勇」という建築ストックを展示に利用・活性化したのは、美術館と山勇さんとの協力関係において実現したプロジェクトであった。このように美術館が自らを開こうと努力する運動が、アート・プロジェクトなのである。

こどものためのアートプロジェクト

池田 亨(学芸員)

キッズ・アートワールドあおもりは子供を主な対象にするアートプロジェクトである。子供故に、内容や表現の形式において制約はあったのだけれども、逆に、子供を対象にするということによって、結果にこだわらず、様々な点で自由であり得た側面もあるのではないかと思っている。今回は「言葉・音・形」をテーマに、多様な表現に親しんでもらうことを主目的に落語家、詩人、音楽家などいわゆる美術家以外のジャンルのアーティストも招聘した。昨今の日本語ブームにあやかって、というわけでもないのだけれど、どこか体育会系の雰囲気の漂う朗読のすすめなどより、自発的な、からだの内側から出てくる言葉の楽しさ、表現することの喜びを大事にしたいという気持ちが根底にあったのだが、その意味では成功裡に終えられたのではないかと思う。低学年の子供たちが中心だった入船亭扇辰の落語のワークショップでは、いたずらっ子も内気な女の子も、生き生きと『寿限無』の一節を所作を交えて演ずるまでになった。また覚和歌子による詩作と朗読のワークショップも、ペンネームをつけるところからはじまり、準備された曲に詞をつけ、最後の発表にいたるまで、こどもたちの自在な発想と新鮮な言葉の使い方にむしろ圧倒されるような楽しいものとなった。また、つのだたかしによる古楽器制作と演奏のワークショップでは、一週間かけて、新進気鋭のギター製作家田邊雅啓の指導のもと、フラットリュートやミルク缶のウクレレ、ホタテ貝のカスタネットなどを仕上げた子供達が、最終日のコンサートで中世ヨーロッパの舞曲を見事に演奏した。その他のどのワークショップでもアーティストたちは、ある時は子供達の過剰なまでの自発性に当惑し、導かれながら共に作ることの喜びを味わっていたと思う。会田誠による「じょうもんしき かいじゅうの うんこ」もまた、子供のためであるからこそ実現できた企画だろうと思う。アートツアーの「成田亨が残したもの」との共同企画として、「青森、子供、怪獣」の三題噺として発想されたこのプロジェクトは、県立美術館建設現場などから持ってこられた40トンを超える粘土で巨大なうんこのオブジェをつくり、野焼きしたのち、破壊してうめもどすという企画である。むつ市スタッフや現地の高校生、一般ボランティア、さらにワークショップ参加者等あわせてのべ100人以上の労働力、2週間以上(野焼きまでいれると約2ヶ月近く)の時間をを費やし、さらには重機を駆使して遂行された。最終的には壊してしまうことのわかっているこのオブジェをつくるために、具体的な結果や利害を考えず、最大の労力と集中力をもって行われたこの壮大ないたずらは、純粋な遊戯としてのアートのもっとも美しい本質を体現していたのではないかとすら思う。アートにとっては厳しい時代である。展覧会やアートプロジェクトには、収益や文化的価値、地域の活性化など、さまざまな思惑がからみ、社会におけるアートの役割について自覚的であることを余儀なくされる。アートのもつ無償性・自由といった重要な性格がいつしか忘れらされていくような気さえする。そんな時代であるからこそ、子供のためのアートプロジェクトの意義はあるのではないだろうか。そこではなにものにも代え難い表現することの喜びという原点に立ち戻らざるを得ないからである。

おとなのためのアートプロジェクト

工藤健志(学芸員)

会期31日、総入場者9,280名。これが「成田亨が残したもの」の数値的結果である。会場は七戸町立鷹山宇一記念美術館。鉄道の通っていない七戸町に、県内はおろか、北海道、東北、関東、関西、四国、中国、九州各地から多くの人が集まり、さらには東アジアからの来館者もあるなど、成田亨という作家の求心力には改めて驚かされた次第。しかし、ある特定層には神様的な存在として支持を集める成田亨も、実際のところ美術家としての認知度は(一般的にも、業界的にも)かなり低く、例えウルトラマンやバルタン星人を知っていても、その生みの親が青森県出身の彫刻家であることはほとんど知られていない。「アートツアー・イン青森」という県立美術館開館に向けてのプレイベントは昨年の工藤哲巳展でスタートしたが、2回目で成田亨を取り上げたのは、ウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブンのデザイン原画189点を所蔵する美術館として、ウルトラシリーズの造形的な基礎を作ったのが成田亨であること、そしてその造形理念がアーティストとしての高い資質に基づくものであったことを開館前にきちんと紹介しておきたかったからである。
加えて、「アートツアー・イン青森」は、単なるプレイベントではなく、県内各地でアートプロジェクトを展開していくという美術館の活動方針のテストケースとしても位置づけられている。キッズと同様、開催地と共同で企画から運営までを手がけていくのだが、毎度のように、それぞれの自治体の仕事の進め方の違いや、「アート」というものに対しての認識のズレが生じて、日頃我々がいかに狭い世界の基準で物事を考え、仕事を処理しているかを痛感させられる。それを拒否するのでなく、むしろ歓迎すべき態度こそが重要であろう。もともと、秩序維持のために価値観の多様性を否定する日本型組織社会(美術館とて例外ではない)とアーティストとは水と油の関係に近い。一般的にはその両者のせめぎ合い(自己規制も含めて)で展覧会の内容は決定されていくが、そこに第三の組織や個人が加わることで思考や価値観の幅が広がり、企画に深みが増す可能性が生まれるのだ。
むろん、広報活動の手法、来館者への対応など、鷹山宇一記念美術館から学んだことも多くあったが、「館内での活動を街へと広げたい」という我々の漠然とした提案に対して、七戸町が地元の課題として積極的に取り組み、様々な問題を乗り越えながら、商店街の古い商家「山勇」での魅力的かつサイトスペシフィックな作品展示へとつながったことの意義は何よりも大きい。
単独では為し得ないことを、それぞれの力をあわせることで乗り越え、さらに予想以上の成果を生み出せること、そして双方の経験値があがることで、今後の活動がともに広がりを持っていくこと。予算削減のための共同企画ではなく、今ここでしか成立しないプロジェクトのために…。ここに、アウトリーチ的な発想を超えたアートプロジェクトの本質があると言えよう。
入館者数から見ると、展覧会としては一応の成果を収めたと言えるかも知れない。しかし大切なのは、ノスタルジーを超えて、怪獣デザインに込められた芸術的理念と、現代文化に与えた影響の大きさを、どれだけの観客に(肯定も批判も含めて)考えてもらえたのかということ。アートプロジェクトの成果と同様に数値化できないこれら要素こそ、ほんらい「文化」と称されるべきものではなかろうか。

esperanza エスペランサ 青森県立美術館に望む

第6回 長尾智子(フードコーディネーター)

青森のポシェットの中には

去年の晩秋のある日、早朝の便で青森に向かった。もうすぐ雪かも知れない、という情報をよそに、ところどころ紅葉の残る山肌に朝日が眩しく当たり、着陸前の飛行機の影を小さく映している。念のために持っていた毛布のようなショールなど全く必要のない、暖かい日だった。
私は青森に少しだけご縁がある。母方の先祖の墓が弘前の新寺町にあり、桜の頃や、まだ雪の残る八甲田山に行った思い出もある。母の本籍地は弘前城のすぐ側だったそうだから、その辺りを通る度に特別な思いが湧いて来なくもない。しかし、遠い親戚がいるだけで、実際には祖母も母も弘前で暮らした訳ではないから、写真でしか知らない祖父が食いしん坊で音楽が趣味だったことや、その親のこと、さらに遡っての先祖の話を「そうだったらしい」という曖昧さで聞いていた程度で、何の実感がある訳でもなかった。何年も前、桜が散りはじめる頃に家族でお墓参りをした時、時間の流れ方が違うという、それまで感じたことのない不思議な感覚に陥った。穏やかで独特なペースは街の動きだけではなく、言葉にも現われている。最近、東北に行く機会が多くなって思うのは、北の言葉の優しさと奥ゆかしさである。街を歩いて、買い物をしたり人と接した時にふと思う。何か大事なものがそこに見え隠れするような気がして、つい立ち止まって今聞いた言葉を反復してみたりする。そんな土地には、どんな美術館が似合うのだろう?最近は日本のあちこちで美術館ができて、建築が話題になることも多い。少しぐらい奇抜なものが建ったとしても私達は驚かなくなっているが、大切なのは、何故それがその土地に建てられるかだから、必然と思える説得力があれば、どんなに奇妙な形をしていても納得できるのかも知れない。中心地から少し離れた建築現場は、三内丸山遺跡の隣、視界の開けた見晴しのいい場所にあった。白く塗装が施されて野外に並んだレンガや土壁のサンプルを見た時、平面図や模型からは想像できなかった建物全体の手触りを一瞬にして目の当たりにする気がして、ちょっと慌てたものだ。これは大変。実際に出来上がったら、どんなことになってしまうのだろうと。早く、粗い土壁を触りながら階段を降りてみたい。そう思うほど、この土地と訪れる人の気持ちにフィットするに違いない質感であったわけだ。ここは多分、青森の気候風土や人や考え方の全てを表す場所になり得る、と直感した。私としては、そこには土地の豊かな産物を食べられるレストランやカフェがあってほしい。決して東京の流行りをなぞったようなものではなく、産地としての誇りに満ちた優しい食べ物があれば、誰でもそこに集まり楽しむもの。食材は正直だから、無理があれば居心地の悪そうな料理になるし、何の変哲もないりんごでも、誠意ある人の手で生かされれば、何ものにも変えられないご馳走になる。それは食べる人に、単においしいというだけでないメッセージとして必ず伝わるもの。身の回りから消えつつあるのも、そういう食べ物ではないか?と思えてならない。
穏やかな一日が終る頃、これが秋と冬との境なのかと思うような、冷たい風がひゅーっと吹いた。私は、それぞれの季節にきっと姿を変えて行くであろう美術館を想像する。そこは展覧会場の役割だけに留まらない、いつでも人が集っているような、暖かく魅力的な場所になって欲しいと心から思う。恐らくその日をきっかけに、青森は私にとって近い土地になったはずだから。先祖のお墓がある所、だけでなく。
縄文ポシェットの中には胡桃の実が入っていたからこそ、それを眼にした人の想像力を豊かにし、太古に思いを馳せるだけでなく、全く違う時代に生きていた彼等に親近感さえ覚えるのだと思う。どんなに箱が素晴らしくとも、重要なのは中に何が込められるかなのだ。展示物だけでなく、一体どんな場所なのかということ。
2006年、青森県立美術館というポシェットを覗くと、何が見えるんだろう?そこにはぜひ、人々の琴線に触れる魅力的な胡桃の実が入っていて欲しい。青森の言葉のような、奥ゆかしく優し気な音のする実がひと

ながお・ともこ
フードコーディネイター。東京都出身。クニエダヤスエ、花田美奈子に師事した後、1992年に独立。料理本出版の他、商品開発やメニューコンサルティング等で活躍。昨春六本木ヒルズ内にオープンした「トラヤカフェ」のフードデザインを手がけ、話題となった。素材の味わいを活かした、自由な発想のレシピで人気を集めている。主な著作に『スチームフード』*福田里香との共著(柴田書店)、『スープブック』(学研)、『ベジマニア』(文化出版局)などがある。母方の先祖は津軽藩士であった。

学芸員エッセイ

関野凖一郎と今純三 〜銅版画と青森を結ぶ糸〜 (後編)

菅野 晶(学芸員)

関野凖一郎は、青森で今純三(1893〜1944)から銅版画と石版画を学びました。中学校時代から版画の同人誌を発行していた美術好きの青年だった関野が、郷里で本格的な銅版画の技術を身につけることができたのは純三のおかげです。そして関野の「火葬町銅版画研究所」も、純三の存在があってこそ生まれたものでした。後編では戦前にさかのぼって、純三を中心に銅版画と青森の繋がりをご紹介しましょう
純三は弘前市に生まれ、10代の頃家族と共に上京。青年期を大正時代の活気溢れる東京で過ごし、1912年に岡田三郎助らが設立した本郷洋画研究所の研究生第一号となります。その後、小山内薫の「自由劇場」や島村抱月、松井須磨子の「芸術座」などの舞台背景制作に携わり、松竹キネマ株式会社の蒲田撮影所美術部などを経て、1921年からは資生堂意匠部に勤務。一方、1919年に松井須磨子の甥をモデルにした油彩『バラライカ』で第1回帝展に入選するなど、新進の画家としても活躍していました。
1923年の関東大震災を機に青森に戻った純三は、師範学校で教鞭を執ったり地元の新聞社の嘱託を務めたりしながら、銅版画や石版画を中心に制作に取り組みました。また、本郷洋画研究所の同門である西田武雄が設立した日本エッチング研究所の活動に協力し、講習会の開催や技法書の執筆、会誌「エッチング」への寄稿などを通して、戦前の日本における銅版画の普及活動にも重要な役割を果たしました。
東京で本格的に洋画を学び、新時代の芸術活動のただなかで活躍していた純三の存在は、青森の美術に大きな影響を与えました。昭和の初めに青森市内の海沿いに建てられた純三のアトリエには、やがて関野をはじめ美術に憧れる地元の若者たちが集まるようになりました。青森時代に制作された純三の作品の多くは、風景や身近な人々を誠実に写す作風です。巧みなデッサン力と彫りや摺りの微妙な効果によって、画面にはその場の空気を感じさせるような空間が生み出され、描かれた事物や人物は静かな、しかも確かな存在感を感じさせます。ここには早稲田大学教授であった兄、今和次郎が提唱した「考現学」に通じる、自らの感情や主観を前面に出すことを控え、対象をありのまま見つめる視線が生かされています。奇をてらった表現や特別なモチーフを探さなくても、身近なものを丹念に見つめて描くことで優れた芸術作品ができることを、青森の若き芸術家の卵たちは彼の作品から知ったことでしょう。
1939年に純三は再び上京しますが、戦争へと向かう時代のなかで病に冒され、5年後、彼を献身的に支え続けた夫人に看取られて息を引き取ります。
関野はその著作の中で、戦時下に画業半ばで倒れた純三の思い出を幾度も語り、「私は今純三門下生というよりも、文字通り製作の邪魔をして石版、銅版画を知ることができたといった方が正しい」(『版画を築いた人々』)と感謝の思いを述べています。関野が1950年代初め、制作資材の調達もままならないなかで、自宅を開放して銅版画教室を開き、技法を学び制作が行える場を提供することを決意したのは、亡き師への恩返しの気持ちからでした。青森のアトリエで黙々と銅版画の研究に励んだ純三の遺産は、前編で紹介した作家たちをはじめとする、この「火葬町銅版画研究所」に集った多彩な人材に、芸術観や作風の違いを超えて引き継がれているのではないでしょうか。