関野凖一郎と今純三 〜銅版画と青森を結ぶ糸〜 (前編)

菅野 晶(学芸員)

版画と聞いて思い浮かべるのは、日本では木版画、西洋では銅版画だといいます。近代の日本における銅版画の歩みは、同じく西洋伝来の油彩画に比べると地味ですが、多くの作家達がこの舶来の技法に取り組み、自分の表現を作り上げることで着実に普及してゆきました。今回はこの銅版画と青森とのこれまであまり知られていない結びつきをご紹介します。
キーパーソンは、関野凖一郎(1914年〜1988年)です。青森を代表する版画家の一人である彼は、木版画だけでなく銅版画や石版画も制作し、実に多彩な活動をしています。ここでは1950年代の前半に、当時東京の杉並区にあった自宅で開催していたという銅版画の研究会に注目します。
関野の著作『版画を築いた人々』の中の「火葬町銅版画研究所」と題された章によると、この研究会は1950〜51年頃、戦後の物不足で画材の入手もままならないなか、月一回程数名が集まってはじまり、やがて「研究生」が増え、会費を取って実技指導をする本格的なものに発展していきました。奇妙な命名は、当時家のそばに火葬場があったことによるようです。文中には研究会を訪れた人物の名もたくさん記されています。なかでも駒井哲郎、浜田知明、浜口陽三は、いずれも1950年代に海外の国際展で高く評価され、日本の美術界にも大きな刺激を与えた作家です。その「ブレイク直前」の彼等が皆、ここに顔を出しているとは興味深いことです。
関野より六歳ほど年下の駒井は当時三十代の初め。二人は戦前から親しい友人で、研究会では共に指導にあたりました。1950年前後から『束の間の幻影』など深い内面性と繊細なマチエールをもつ初期の代表作を制作し、まもなく瀧口修造の「実験工房」にも参加しています。この頃は彼の最も充実した時期の一つといえるでしょう。
当時三十代前半の浜田は、戦時中の従軍体験を表現する方法を模索する中で銅版画に着目し、駒井の紹介でやってきます。駒井や関野からプレス機の制作や技術上の助言を受け、まもなく戦争と人間という主題に鋭い造形感覚で切り込んだ「初年兵哀歌」シリーズを制作して注目を集めます。※1
浜口の訪問は、研究会が始まって間もなくのことのようです。四十歳を過ぎた頃ですでに外遊体験もあった彼は、ここで大きな収穫を得ます。メゾティントという技法では、銅版に特殊な下地を作るためにベルソーという専用の道具が必要ですが、当時日本では入手困難でした。関野はベルソーなしでこの下地を作る方法を実演してみせたといいます。※2実際に、浜口の作品目録には1951年からメゾティントによる作品が登場します。数年後に渡仏して本格的にメゾティントに取り組み、「カラー・メゾティント」という技法を開発して独自の世界を築きます。
他にも、当時十代後半から二十代前半だった加納光於、小林ドンゲ、野中ユリ、吉田穂高など、やがてそれぞれ個性的な活動を展開する作家たちや、明治生まれの川口軌外、関野と同世代の桂ゆきなど、生涯にわたって斬新な表現を模索し続けた画家の名前があります。
意外なところでは、漫画『のらくろ』の作者田河水泡が第一回から参加しています。当時五十代初めの彼は、美術学生だった頃にはマヴォ(MAVO)という前衛美術のグループに加わったこともある多才な人でした。実は関野の師である恩地孝四郎とは隣家に住む親しい友人であり、関野に研究会開催を勧めたのは彼だということです。
研究会では銅版、インクの材料から紙まで自前で調達し、道具を工夫して版を作り、プレス機も自作したり、改良を重ねたりしました。理想的とはとてもいえない環境の中で、銅版画の魅力に惹かれた多彩な人物がここに集い、やがてそれぞれの道を歩んで行ったのです。
それにしても、関野はこのような研究会を主催できる銅版画についての知識と技術をどこで身につけたのでしょうか。そこには弘前出身の今純三の存在がありました。

※1『浜田知明聞書 人と時代を見つめて』(吉田浩著、1996年、西日本新聞社)に当時の回想が述べられています。(P.111-113)
※2「版画芸術」第111号(阿部出版 2001年3月発行)浜口陽三追悼特集「浜口陽三・人とその作品」(三木哲夫著)にこのエピソードが取り上げられています(P.69)


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