アート ハイ&ロー (下)

工藤健志(学芸員)

昨年のはじめ、一緒に仕事をさせてもらった作家たち…、「ウルトラマンの産みの親」として知られる成田亨さんが2月26日に72歳で、「アンフォルメルの騎手」として一世を風靡した今井俊満さんが3月3日に73歳で亡くなりました。それぞれ100点以上に及ぶ青森県のコレクションを目の前にして、今いろいろな想いがめぐります。
成田さんによるウルトラマン関連のデザイン原画を見て「なんだ漫画か」と思う人は多いでしょう。今井さんが最晩年に取り組んだ、携帯を片手に股を広げるコギャルの姿に眉をひそめる人だって多いかも知れません。けれど例えばシュルレアリストが描いた怪物の絵を見て「漫画だ」と思ったり、裸婦の彫刻を見て「破廉恥だ」と眉をひそめる人が果たしてどれくらいいるのでしょうか。ちょっと不思議ですよね。
それは、今の社会が主体にそう判断させているからに他なりません。ブロンズや油彩の裸婦像は芸術であり、決して猥褻ではないという「社会通念」。すべからく芸術は高尚であり、純粋であらねばならない、と。近代という時代は特にその傾向が強く、よって生や死を取り扱うことは尊ばれるものの、笑いや性の問題は禁忌となってしまったのです。
しかし忘れてならないのは、普遍的な価値観など存在しないこと。すべては一時の規範にしか過ぎません。社会性にあわなくなった法律が次々と改正されることからもそれは明らかです。時代という大きな枠組みの中で、我々はただ「生かされている」に過ぎない存在なのかも知れません。
当然、美術作品の価値も時代によって大きく変わっていきます。現在の美術状況は、モダニズムへの反動からか、大衆迎合に一段と拍車がかかっているようにみえます。とは言え、経済のシステムに乗っかり、消費の対象と化している作品が多いこともまた事実でしょう。あらゆるものがマスメディアを味方につけるか否かで評価が天と地ほど変わるのもおかしなことですが現実です。テレビ番組の「ウルトラマン」は大量消費社会の権化ですし、コギャルもまた時代が意図的に作り出した消費文化でした。人間の、偽善の仮面をひとたびはずせば、両者ともに果てしない欲望の受け皿となっていくのは改めて指摘するまでもないことです。それらはほんらい「低俗」だし、「隠されるべきもの」のはず。表層を取り繕うことに重きがおかれる今の社会において、「偽善」は世の中を上手に生きるための最大の武器となりますが、美術もまた然り。うわべの体裁に気をとられ、生の実感が希薄になり続ける一方で、その隠されたはけ口では欲望が歪な形で爆発することが多くなっているような気がしてなりません。
成田さんは古今東西の芸術的成果や動植物が持つアウラを怪獣デザインに落とし込むことで大地に足のついた「造形」を創出し、今井さんは生のエネルギーを解放する象徴としてコギャルを援用しました。これらが、大衆文化を表層的に取り込んだ作品と決定的に異なるのは、根源から沸き上がる土俗的な力(恐怖、笑い、怒り、喜び、悲しみ、エロス、タナトス…)を有していること。アーティストは精神の革命家。ゆえに、産み落とされる作品は容易に消費できるものではありません。
いったい何が真の「芸術」なのか。人間関係と同じように、深く作品とつきあってみると第一印象の「ハイ&ロー」が反転することの方がむしろ多いような気もします。


学芸員エッセイ