青森なんて関係ないよ

立木祥一郎(学芸員)

映画監督の相米慎二は、1948年生まれ。『セーラー服と機関銃』を大ヒットさせ、『台風クラブ』(85年)で東京国際映画祭ヤング・シネマ大賞の受賞をはじめ、その独特の表現手法は内外で高く評価された。薬師丸ひろ子や、永瀬正敏、工藤夕貴、牧瀬里穂など「アイドルたち」を、徹底した演出で鍛え上げ「俳優」へと飛躍させることでも知られた。
1998年の作品『あ、春』が、秋田の十文字映画祭で上映された時、監督に5、6年ぶりにお目にかかった。私が美術館建設のために東京暮らしから、青森に移住したことも、ちゃんとお知らせしていなかった。緊張してご無沙汰の挨拶をと近づく私を見つけて、監督はいきなり「お、太ったな。」.である。(この映画の東京公開の舞台挨拶の時に、主演の斎藤由貴にもおなじことをいきなり言っていたので、笑ってしまったが。)「青森にいるんだってなあ。なんであんなとこにいるの。」「記念碑とか建てるんじゃないぞ。」ぼつぼつと話す。唖然としていると監督は、「ああ、青森の出身なんだよ。相米というとこのでなんだ。」ここには、まだ相米一族がいて時々いってるというような話をしたのが、監督とお目にかかった最後となった。キネマ旬報の日本映画監督辞典などをひっぱってみても、相米監督の出身地は盛岡、それから、北海道で育ったということしか書いていない。
ところで相米監督のフィルモグラフィーはちょっと変わっている。1980年『翔んだカップル』で監督デビューし、次々に監督作品を重ねながら、寺山修司の『草迷宮』という1983年の作品で助監督に戻った。ヒットを飛ばした気鋭の監督が、助監督にもどるというのは、不思議なことだ。実は『草迷宮』は、『アンダルシアの犬』のピエール・ブロンベルジュがプロデュースしたオムニバス映画の1篇として、1978年にフランスで公開された。その後、日本でロードショー公開されたのが1983年。相米監督は、同郷の寺山の助監督を務めてから、数年後に監督デビューをしたことになる。
たとえば『台風クラブ』で、ストーリーとは関係なく夜のアーケードに佇むオカリナ男など、初期の相米作品には時として寺山的な異形のキャラがでてくるのだ。こちらが訊てもいないのに、あまり青森の話ばかりするものだから、思い切って相米監督に寺山修司の助監をやったのと青森の関係について質問してみた。監督は一瞬考えてから、案の定、「青森なんて関係ないよ」と、はぐらかされてしまった。でも寺山修司という言葉で、相米監督の顔が、ぱっと明るくなったのがとても印象にのこっている。相米監督の代表作であり、青森県の大間で撮影された傑作『魚影の群れ』が公開されたのも1983年。
いま相米慎二は、故郷、田子町、相米の墓に眠っている。


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