2008年4月15日 (火) - 2008年6月22日 (日)

※4月15日-5月31日 9:30-17:00(最終入場は16:30)
 6月1日-6月22日 9:00-18:00(最終入場は17:30)
※寺山の展示コーナーは当期間中、閉鎖します。
※夏のコレクション展への展示替え時、展示室を一時閉鎖いたします。詳しくはご案内をご覧下さい。


斎藤義重、工藤哲巳、江口隆哉・・・、「時代」を作った芸術家たち

今回の常設展では、芸術分野で新しい時代を築いた青森ゆかりの作家の仕事を紹介し、その先駆性や前衛性を検証します。
江戸時代に画人、俳人、歌人、読本作家、国学者といった様々な分野で才能を発揮するなど、マルチアーティストの先駆けともいうべき才人であった弘前出身の建部綾足。ドイツで起こったノイエ・タンツ (新しい舞踊) を日本に紹介し、戦前から戦後にかけて日本のモダンダンス界に大きな影響を与え、その門下から大野一雄や土方巽を輩出した野辺地町出身の舞踊家江口隆哉。画業を通じて十和田湖の美を世間に知らしめることに生涯を捧げ、十和田湖を中心とした神秘的な古代史の研究に没頭した日本画家鳥谷幡山。ジャンクアートの世界的な作家であった小野忠弘、絵画や彫刻といったジャンル分けを超え、物質性に重点をおいて空間を取り込んだ立体作品を多く手がけた斎藤義重、旧来的な芸術観に疑義を呈し、その作品が「反芸術」と称された工藤哲巳、彫刻家でありながら、特撮美術の世界でも活躍し、TV「ウルトラマン」のヒーロー、怪獣を一手にデザインした成田亨・・・。
青森県ゆかりの作家には、こうした時代の先端を走った芸術家、ユニークな活動を行った美術家が多く存在します。それぞれの作家の卓越した個性をお楽しみいただくとともに、そうした作家を産んだ青森県の風土についても想いをはせてみてください。




棟方志功展示室 展示室Q 展示室J

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展示室F | 奈良美智:インスタレーション

青森県弘前市出身の奈良美智 (1959 - ) は、弘前市の高校を卒業後、東京と名古屋の大学で本格的に美術を学び、1980年代半ばから絵画や立体作品、ドローイングなど、精力的に発表を続けてきました。青森県立美術館は、1997年から奈良美智作品の収集をはじめ、現在その数は150点を越えます。
《Hula Hula Garden》と《ニュー・ソウルハウス》という2点のインスタレーション(空間設置作品)を中心に、奈良美智の世界をご紹介します。
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棟方志功展示室 | 棟方志功:裏彩色の魅力

棟方志功 (1903 - 1975) は墨一色で摺られた白黒板画の美しさを追求しましたが、その一方、「微妙な板画の『姿』」を表すもう一つの方法として、摺った紙の裏から筆で絵の具を染みこませて色を出す「裏彩色」の技法を用いて、数多くの作品を制作しました。
裏彩色は表から彩色するのに比べ、やわらかい、ほのぼのとした気分を板画に流れさせる効果があるといいます。
今回は、裏彩色の魅力を中心に、幅広い棟方の芸業をご鑑賞ください。
そのほか、新たに県立美術館に寄託を受けた棟方の油彩画の一部を紹介します。
(展示構成:棟方志功記念館/展示作品数:16点)
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展示室O + M | 鳥谷幡山と十和田湖奥入瀬をめぐる美術

現在は、青森県のみならず、日本を代表する名勝の一つとして観光客が数多く訪れる十和田湖と奥入瀬渓流ですが、明治時代の終わり頃までは、交通の便もなく、その美しい風景は、地元の一部の人々が知るのみでした。
十和田湖が観光の名所としてひろく知られたのは五戸出身で雑誌「太陽」を主宰した評論家鳥谷部春汀が文筆家大町桂月に勧めて十和田探勝を行わせ、「太陽」に記事を載せる等十和田湖の顕彰につとめたことなど、十和田湖の景色を愛する人々の努力によるところが大きかったのですが、七戸出身の日本画家、鳥谷幡山 (1876 - 1966) もその一人であり、生涯にわたり十和田湖の風景を描き続けました。
幡山、春汀をはじめ、地元関係者の努力がみのり、1936年には十和田湖は国立公園に指定されました。
名勝としての十和田湖・奥入瀬渓流は多くの画家たちの心をとらえました。青森県の画家達だけではなく、全国から訪れて奥入瀬を描く画家達の中には、毎年のように長期間滞在し、十和田・奥入瀬を描き続けた画家達がいます。その代表的な存在が、大阪出身の佐竹徳 (1897 - 1998) です。佐竹は、鹿子木孟郎、藤島武二らに学び、帝展・日展などで活躍した洋画家ですが、1940年に十和田村を訪れて以来、20年以上にもわたって毎年十和田を訪れ、奥入瀬の風景を描いています。
また、栃木県生まれの刑部人 (1906 - 1978) も、日本各地の名勝を描いた中で、先輩の金山平三と共に繰り返し十和田奥入瀬をおとずれて写生しています。
また、十和田湖には高村光太郎による「乙女の像」が設置されています。この像は、国立公園指定15周年記念事業として制作されたものですが、その際助手をつとめたのが野辺地町出身で東京芸大彫刻科に学んだ彫刻家小坂圭二でした。小坂はのちに小川原湖に身を投げた伝説の姉妹の彫像を制作しています。
展示室O、展示室Mでは、鳥谷幡山をはじめ、彼ら美術を通じて十和田・奥入瀬に関わった作家達の作品を展示します。
(展示作品数:18点)
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展示室P - Q | 斎藤義重:思考する板

絵画や彫刻といったジャンル分けを超えた独自の表現を追求した斎藤義重 (1904 - 2001)。
1960年代以降は、電気ドリルを使って合板に線を刻んだ連作を発表することで作品の物質性に重点をおき、1970年代末からは空間を取り込んだ立体作品へと移行していきました。
今回は、後期作品の重要な素材であった板 (主にスプルース材) に着目し、その幾何学的な構成による作品、神話に想を得た作品、実用性に富む作品など、板の自在な組み合わせによって生み出された様々な表現を紹介します。いずれも、木の素材感が可能な限り消された板が多様に重なり、また複雑に構成されることで、板と板との緊張感ある関係、そして板と空間との豊かな関わりが追求された作品です。何を示し、何を意味するかではなく、純粋なる「もの」として存在するこれら作品は、受け手に思考と解釈を要求します。ただし、そこに何らかの「正解」がある訳ではありません。作品をきっかけとして、それぞれの思索や感性を深化させていくこと。「分かりやすさ」が重視される現代において、斎藤が残した作品群はより重要な意味を持ちはじめているのではないでしょうか。
(展示作品数:10点)
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展示室L | 建部寒葉斎:近世津軽の前衛アーティスト

建部綾足 (1719 - 1774) は、弘前藩家老喜多村家に生まれ、20歳の時に兄嫁と不倫の末、心中も果たせず、郷里を出奔。俳諧師として諸国を巡り歩き、以後故郷へは帰りませんでした。
綾足は、俳諧の他、絵画の分野では、二度にわたり長崎に遊学、沈南蘋の流れを汲む熊代熊斐や、清の画家費漢源に学びました。学んだ諸家の手本を出版した「寒葉斎画譜」をはじめとする画譜類は、写実的な画風の南蘋派の漢画をひろく普及させる役割を果たしました。俳号は涼袋、画号は寒葉斎と称しています。
また国学を学び、古代の「片歌」の復興を唱道する一方で、読本 (小説) にも手をそめます。この分野では、『西山物語』という二家の争いで恋人を殺された若い男が夢で亡霊となった娘と契りを結ぶ幻想的な物語を著し、未完の『本朝水滸伝』では奈良時代、中央からの亡命者たちが、全国のまつろわぬものたち、海や山の民、はては蝦夷の王や唐を逃れた楊貴妃を味方につけて戦うという、壮大な伝奇物語を描いており、その文業には、近年ますます注目が集まっています。
様々な分野で新しい試みをしましたが、大成させることなく次から次へ進み、「生涯酔たるか醒たるかしるべからざる人なり」と評された綾足の生き方は、寺山修司をはじめとする本県出身の前衛アーティストの原型ともいえるでしょう。
今回は、当時高く評価された画人としての綾足をつたえる屏風作品を中心に、画譜類などを展示し、この本県出身のマルチタレントの先駆けともいうべき才人の業績の一端を紹介いたします。
(展示作品数:8点)
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展示室J | 小野忠弘:永遠のアヴァンギャルド

大正2年、青森県弘前市に生まれた小野忠弘 (1913 - 2001) は、東京美術学校彫刻科で本格的に美術を学んだ後、美術教師として福井県三国町に赴任。日本海に臨む丘の上に構えたアトリエで、88歳で命を落とすまで、ひたすら独自の表現世界を追求しました。
厚塗りの絵具、樹脂のしたたり、貼り付けられた廃品の数々。絵画でも、彫刻でもない、雑多な素材の無数の絡み合いで作られる小野の造形物は、混沌とした中に、未知の時空を思わせる神秘をたたえています。
「小野忠弘という美術家は、戦後の40年間前衛といわれ続けています。一度も保守であったためしがない」。作家と親交のあった詩人、宗左近は、こう語っています。
今回は、当館の80点あまりの小野忠弘コレクションから、創作活動の展開を概観できる6点の代表作を展示。永遠のアヴァンギャルド、小野忠弘の涸れることのないエネルギーが生み出した深遠なる宇宙に誘います。
(展示作品数:6点)
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展示室K | 工藤哲巳:人体からのメッセージ

工藤哲巳 (1935 - 1990) は、1935年に五所川原出身の画家工藤正義の長男として生まれ、戦後の日本美術に新しい流れをつくった「反芸術」のホープとして活躍しました。
東京芸大卒業後、1962年パリに渡り、晩年、1987年に東京芸術大学教授となり帰国するまでの20数年間、ヨーロッパの閉塞した社会をショッキングな表現方法で挑発し続け、その活動は高く評価されました。
1990年に早世するまでの55年という短い生涯、“生きる”ということについて真摯に問い続け、駆け抜けました。
工藤は、自分は美術作品を作っているつもりはないとして、自らの作品を「社会評論の模型」と呼びました。そして、見る人々を挑発し、嫌悪させるショッキングな表現手段として、人体を変形させたり、鼻やセックスシンボルなど人体の一部を切り取ったりしています。
1960年代には、過去の栄光にすがるだけで不能化されたヨーロッパ社会を痛烈に批判し、「あなたの肖像」シリーズを制作します。「あなたの肖像」とは、ヨーロッパの愚かなあなたたち、これがあなたがたの姿ですよ、と挑発しているのです。この不能化されたヨーロッパを徹底的に批評するために、工藤はあえてショッキングな表現、猥褻な表現を組み合わせて攻撃しました。その反応を見ながら、相手を分析し、また新たな挑発を繰り返していったのです。
70年代に入ってから、工藤が取り組んだ新たなテーマは「環境汚染」問題でした。人間が豊かさを追及する一方、自動車の排気ガス、工場からの排煙、廃水など、自らが作り出した環境汚染、自然破壊に苛まれている。自分たちが作り出した機械文明が自分たちを圧迫していることを認識しつつも、自ら克服できずにいる「不能さ」。つまり、どうしようもなく立ち行かなくなった人間と自然との関係、人間と機械との関係をいったんご破算にして新たな関係性を築かなければならない、という意見表明を行っています。
30年、40年も前に制作された作品が、今もってなお、今日的なテーマとしてわれわれに迫ってくることの意味は大きいと思います。
ここにおいて、人工的な人体は、はるかに雄弁なメッセージを放っているのです。
(展示作品数:20点)
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展示室I | 成田亨の怪獣デザイン:その「構造」と「意外性」

成田亨 (1929 - 2002) が手がけた「ウルトラ」シリーズの怪獣デザイン原画を紹介します。
彫刻家としての感性、芸術家としての資質が反映されたそのデザインは、放映後40年がたつ現在もなお輝きを失っていません。
成田は、青森高等学校在学中に阿部合成へ師事、武蔵野美術大学に進学の後は彫刻を専攻しました。卒業後、新制作展を舞台に活躍する彫刻家として活動する一方、映画「ゴジラ」 (1954) を皮切りに、映画美術の世界でも活躍をはじめました。「ウルトラ」シリーズにおける怪獣デザインの特徴は、自然や動物、過去の文化遺産を引用しつつ、誰も見たことのない形の「意外性」を出していくこと。怪獣イコール化け物というそれまでのイメージをくつがえし、新鮮でありながらもどこか懐かしく愛嬌のあるデザインが次々に生み出されていったのです。
そして、そのデザイン画は彫刻家としての高い資質に裏付けられた力強い「構造」を持つ、1点の独立した絵画としてもきわめて創造性の高いものと言えましょう。

(展示作品数:55点)
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展示室H | ×Aプロジェクトno.4 江口隆哉:考える身体

江口隆哉 (1900 - 1977) は青森県上北郡野辺地町に生まれました。下北半島の付け根に位置し野辺地湊を擁する野辺地町は、藩政時代には日本海航路により上方から多くの産物が運びこまれましたが、そうした物資とともに上方文化も流入し、仕舞、日本舞踊、謡曲などの芸事が盛んな町として栄えました。幼い頃の江口は、当時の名残が残る環境の下、こうした芸事に親しんで育ち、次第に舞台の世界で生きることを志すようになります。20代半ばの頃、前衛的な活動を展開していた「築地小劇場」に入ることを目指して上京しますが、様々な曲折を経た後、1929年、高田雅夫・原せいこ舞踊研究所に入所、これが舞踊家としての端緒となりました。そして、2年後の1931年には同門の宮操子 (みや・みさこ) とともにドイツに渡ります。滞在中、数多くの舞踊公演に足を運んでドイツの新しい舞踊〈ノイエ・タンツ〉に触れた江口は、なかでも舞踊家、マリー・ヴィグマンの舞踊に深い感銘を受け、ヴィグマンのもとで学び、いち早く〈ノイエ・タンツ〉を日本にもたらしました。彼らの舞踊は新鮮な感覚と高い芸術性を備えた“新しい舞踊”として注目を集め、江口隆哉は日本におけるモダンダンス界の中心的存在となっていきました。その影響力は大きく、1960年代に新しい舞踊表現〈舞踏〉を創始した土方巽も、若き日に郷里、秋田で江口隆哉門下の増村克子に師事して〈ノイエ・タンツ〉を学び、上京後は江口の舞台に出演もしていました。
一方、江口は舞踊教育者としても重要な功績を残しました。彼はヴィグマンの舞踊学校で学んだ経験を基に、“モダンダンスとは何か”という理論を教えることを通して、生徒一人一人の個性にあわせた舞踊スタイルを創造させるという指導法を実践し、多くの優れた舞踊家を輩出しました。また、モダンダンスを専門家のみならず、より多くの人々に広く普及させるため、モダンダンスに関する自著の出版等も意欲的におこないました。
「モダンダンスは、舞踊とは何かという、独自性に目ざめたところから生れた舞踊」と自らの著作の中で語っているように、江口は舞踊家としての生涯を通して「舞踊とは何か」を常に問い続け、人間の身体がつくりだす動きについて思考を重ねながら、“新しい舞踊”を追求し続けた、日本における舞踊の開拓者であったといえます。
今回は江口隆哉が長年にわたり教鞭を執った日本女子体育大学および関係各位のご協力により、青森県が生んだ江口隆哉という舞踊家の軌跡を関係資料によって振り返ります。
(展示作品数:40点)

※「×A (バイエー) プロジェクト」は、青森県立美術館のコレクションと建築空間の新たな魅力を引き出すための継続的プロジェクトです。国内外のアーティストの作品やさまざまな創造の分野で活躍する人たちの発想など、青森県立美術館のコレクションあるいは建築空間に、新しい可能性を切り開く要素をかけ (×) 合わせることで、その特性と普遍性について考えます。
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展示室N:特別史跡 三内丸山遺跡出土の重要文化財

縄文の表現

特別史跡三内丸山遺跡は我が国を代表する縄文時代の拠点的な集落跡です。縄文時代前期中頃から中期終末 (約5500年前 - 4000年前) にかけて長期間にわたって定住生活が営まれました。これまでの発掘調査によって、住居、墓、道路、貯蔵穴集落を構成する各種の遺構や多彩な遺物が発見され、当時の環境や集落の様子などが明らかとなりました。また、他地域との交流、交易を物語るヒスイや黒曜石の出土、DNA分析によるクリの栽培化などが明らかになるなど、数多くの発見がこれまでの縄文文化のイメージを大きく変えました。遺跡では現在も発掘調査がおこなわれており、更なる解明が進められています。
一方、土器や土偶などの出土品の数々は、美術表現としても重要な意味を持っています。当時の人間が抱いていた生命観や美意識、そして造形や表現に対する考え方など、縄文遺物が放つエネルギーは数千年の時を隔てた今もなお衰えず、私達を魅了し続けています。
青森県立美術館では国指定重要文化財の出土品の一部を展示し、三内丸山遺跡の豊かな文化の一端を紹介します。縄文の表現をさまざまな美術表現とあわせてご覧いただくことにより、人間の根源的な表現について考えていただければ幸いです。
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マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の背景画

青森県は1994年に、20世紀を代表する画家、マルク・シャガール (1887 - 1985) が制作した全4幕から成るバレエ「アレコ」の舞台背景画中、第1幕、第2幕、第4幕を収集しました。
ユダヤ人のシャガールは1941年、ナチの迫害から逃れるためにアメリカへ亡命します。バレエ「アレコ」の舞台美術は、画家がこの新大陸の地で手がけた初の大仕事でした。
1942年に初演をむかえたバレエ「アレコ」の振付を担当したのは、ロシア人ダンサーで、バレエ・リュスで活躍したレオニード・マシーン。音楽には、ピョートル・チャイコフスキーによるイ短調ピアノ三重奏曲をオーケストラ用に編曲したものが用いられ、ストーリーはアレクサンドル・プーシキンの叙情詩『ジプシー』を原作としていました。
シャガールは祖国ロシアの文化の粋を結集したこの企画に夢中になり、たくましい想像力と類いまれな色彩感覚によって、魅力あふれる舞台に仕上げたのです。

作品名 制作年 材質技法 寸法 (cm)
『アレコ』第1幕 《月光のアレコとゼンフィラ》 1942年 綿布・テンペラ 887.8×1472.5
『アレコ』第2幕 《カーニヴァル》 1942年 綿布・テンペラ 883.5×1452.0
『アレコ』第4幕 《サンクトペテルブルクの幻想》 1942年 綿布・テンペラ 891.5×1472.5
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奈良美智 『八角堂』

レストランやミュージアムショップの裏側に位置する野外のスペースには、奈良美智のコミッションワーク『八角堂』が見られます。八角形のお堂の中に、《Shallow Puddles Ⅰ/浅い水たまり Ⅰ》 (2004年) と題された6点の皿場の絵がひっそりと収められています。礼拝堂を想わせる神秘的な空間をお楽しみ下さい。
*美術館本体の開館と同じ時間帯に、無料でご入場いただくことができます。
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